秘書官の冷笑
信也と別れて、二人はB棟に続く奥の廊下に向かった。
階段を昇り、三階まで行ったところで、リリィが声のない口を開いた。
「どうしたの?」
リリィは口を動かし、一生懸命に何かを訴えようとしていた。微かに空気が擦れる音がする。
「え?」
翔は、リリィの口の動きを読むことは出来るが、リョウのように素早く正確に読み取ることはできない。それでも、リリィとの短い付き合いの中で、しかも何の経験もなくここまで読み取れるのは珍しいことだと信也は言っていた。
「ごめん。リリィ、もう少しゆっくり」
翔は足を止めると、リリィにそう頼んだ。
リリィはもどかしそうに喉を押さえたが、それでも止めようとしなかった。すぱりと一言だけ、唇をはっきり動かした。
やっと短い言葉がわかり、翔は肩を落とした。
「『気にしないで』か」
リリィが何度も、形のいい顎を上下させる。
「もしかして、わかっちゃってた? さっき、リョウと信也に言われたこと気にしていたの」
翔の自嘲するような呟きに、リリィがためらいがちに一度だけ頷く。
「リリィって結構鋭いもんねえ」
翔のあきらめたような言葉も気にせず、リリィは声なき声で必死に訴え続ける。
「優しい方がいいって、言ってくれてるの?」
リリィは静かに頷いた。
「実際に迷ったんだよね。レントゲンがあるのは気がついていたんだよ。
けど、絵麻が脅えたら可哀想で、それに」
その時、廊下に軽い足音が響いて、翔は言葉を切った。
「翔くん。リリィちゃんも」
声の方向に二人が振り向くと、そこには銀髪の男性がいた。
仕事をしている人間としては略式の服装をしている翔たちとは違って、品の良い礼装をした男性だった。翔に並ぶ長身で、真っすぐな銀髪はリリィと同じく後ろで束ねられていて、青い目が柔和に笑う。
「ユーリ」
「お久しぶりです」
ユーリと呼ばれた男性は、穏やかに微笑んで一礼した。
「朝からどうしたの? まだ始業時刻前なのに」
「会議に回す急ぎの資料がありまして。各課に配らないといけないんですよ」
彼は自分の抱えていた書類の束を示した。
「Mr.PEACEの直属秘書っていうのもたいへんだね」
「これが仕事ですから」
そう言ってユーリは立ち去ろうとしたのだが、ふと思いついたように翔を見た。
「翔くん」
「何か?」
ユーリが声を落としてささやく。
「貴方がここに戻って来ているということは、『血星石』は回収できたんでしょうね?」
ユーリが微笑のままで、翔の痛い部分をついてくる。
「あ……えっと」
あまりに唐突に言われたので、言葉に動揺が出てしまった。
「まさか、できないで戻って来たなんてことはありませんよね? 貴方ほどの人が」
「いえ、そういうわけでも」
ぼそぼそと言ったのだが、ユーリは容赦してくれない。
「Mr.がこぼしてましたよ。『報告が遅い』とね」
「報告? 報告なら、シエル達の方と同時に提出って話だったはずじゃ?」
「二組ともあんまり遅いんで、どちらかが先に帰っているのなら報告を優先して欲しいと通信を送ったはずですが。見てませんか?」
「通信? リリィ、確認した?」
リリィが首を振る。
そういえば絵麻の一件のせいで、確認を怠り気味だった。端末を使うときはそちらのデータを探すのにかかりきりになっていたし、普段なら耳ざとい情報管理担当者は、生憎と出かけたきりだ。
「……見ていないようですね」
「ちょっと忙しくて」
曖昧に笑った翔を見るユーリの視線に、鋭さが混ざった。
「それでは、ここでお知らせしましょう。早急に『血星石』に、発見時の状況を分析したデータを添付してMr.の執務室へ提出してください」
「早急……ですか。どのくらい時間をもらえますか?」
翔の歯切れの悪い返答に、ユーリが意外そうに目をまたたかせた。
「貴方ほどの処理能力があれば、本日中でも十分ではないですか?」
「本日中?!」
声が不自然に裏返ってしまい、翔はしまったというふうに口を押さえた。
「まあ、通信を確認していなかったのなら急な話ではありますか……では、明日いっぱいということでいかがでしょう?」
翔が返答に窮したとき、頭上で始業を告げるチャイムがなった。
「おや。もうこんな時間ですか。早く資料を届けなくては」
ユーリは会話を打ち切ると二人に背を向け、廊下を歩き始める。
角を曲がるときに、彼はゆるりと振り返って、翔を
「くどいようですが、Mr.がお待ちです。この意味、わかりますね?」
そう言ったユーリはやはり笑っていたが、アイスブルーの瞳は刺すような光を宿していた。
「ええ。痛いくらいに」
「ならよかった」
言うと、ユーリは去っていった。廊下に響く靴音が遠くなる。
「明日中って要するに、今日中に絵麻の身体から血星石を取り出す方法を探さないと駄目ってこと?」
壁にもたれかかりながら言った翔に、リリィが遠慮がちに頷いた。
翔は思わず、天井をあおいで額をおさえた。
「三日かかってもやれなかったことを、今日一日でやれって? そんな無茶な」
ふと気づくと、リリィが心配そうに自分を覗きこんでいた。
先ほどのユーリ・アルビレオは平和部隊総帥であるMr.PEACE直属の秘書官である。本来なら一部隊員である翔やリリィが気安く口を利ける相手ではない。
それができるのは、翔たちが平和部隊総帥直属の非合法部隊の隊員だからだ。
翔は物思いから覚めると、額に当てていた手を外してリリィと視線をあわせた。
「うん。ユーリの言葉はMr.PEACEの言葉。所詮、僕らは雇われの身だもんね。指示には従わないと」
翔の言葉を受けてリリィが唇を動かしたが、翔は読み取れなかった。
「ごめん。もう一回ゆっくり」
リリィは嫌な顔もせず、ゆっくりと唇を動かす。
「絵麻をさし出すの、って? そんなことをすれば、Mr.は絵麻を亜生命体と認識して『処分』するだろうな」
そう考えているからこそ、翔は絶対の権力を持つ雇い主に相談しなかった。信也までで留めおいた。
「……でも、そうしないと僕らは仕事にならないんだよね」
翔たちは非合法部隊・NONETとして『仕事』をこなすことを条件にPCに雇われている。
その仕事が果たせなければ、解雇されてしまっても文句は言えない。最悪、戦争犯罪者か殺人者として突き出される可能性だってあるのだ。
Mr.PEACEは平和部隊PCの総帥――爵位こそないが、地方の下手な豪族よりずっと地位は高い。敵に回して得になることはない。
ユーリは総帥直属の秘書官にして腹心。Mr.PEACEが彼にどれほどの信頼を置いているかは、彼に『NONET』との連絡係をまかせていることからも容易に想像できる。
「対策、考えてみるよ。リリィはそろそろ行った方がいい」
翔は腕時計に目を落として、始業時刻から幾分過ぎてしまったのを確認すると、そっとリリィを促した。翔の視界の隅で、金色の光が揺れる。
翔はぼんやりと見送っていたのだが、廊下を曲がるところでリリィは振り向くと、翔を安堵させるように頷いてみせた。
「また夜にね」
リリィが角を曲がって行くのを確認すると、翔はもたれていた壁から体を起こした。
リリィが行ったのと別の方向へ歩いて、自分の所属する科学開発課のドアに歩きつく。
「誰だ、遅刻した奴は」
主任の怒鳴り声は、翔の姿を認めたとたんに細くなって消えた。
「なんだ。明宝じゃないか」
「すみません。廊下でアルビレオ氏と話が」
わざとユーリの名前を出して牽制すると、主任は完全に勢いを削がれて「ああ」と小さく言った。唸ったような声だった。
「それならいいんだ」
翔はおとがめなしで、自分の研究机に向かった。すっきりした自分の部屋の机とは違って、ひどく乱雑だった。どこに何があるかはわかっているのだけれど。
ジャケットを脱ぎ、椅子の背にかけておいた白衣と交換する。椅子に座って、そこでようやく一息つけた。
(ふう……朝から疲れた)
手元の資料をあさって、一枚のプリントアウトをひっぱり出す。
それはもう暗記してしまった『力包石の同調による身体能力の成長とそれに伴う廃人化現象』のプリントだった。なんとなく目が内容を追いかける。
絵麻には症状が現れつつある。自覚に至るのもそう遠い日ではなさそうだ。
信也の言うとおりに全てを話し、一縷の望みにかけた実験道具のような生活を強要するべきなのだろうか?
けれど、それが意味するのは……。
翔は首を振って、頭に浮かんだ考えを追い払った。自分の瞳が暗くよどんでいるのを翔は感じていた。
どうせなら、このまま『科学者』の目線で、廃人化現象の終始を観察するか? それとも、一瞬で終わる『処分』に回してしまおうか?
Mr.PEACEにすべてを話し『処分』してもらえば一瞬で事は終わる。
翔が思い煩う必要はなくなるし、今までと同じくMr.PEACEという権力者の庇護の下で暮らせる。それが思い通りの生活ではなく、戦争犯罪に荷担する生き方だとしても。
絵麻だって、苦しむのは一瞬。
お互い、楽になるのがいちばんいいことではないか――?
「……」
翔の思考は、次第に追い詰められていった。




