音のない優しさ
「リリィ? 入るよ」
リョウは二階の右翼端にある、リリィの部屋の前に来ていた。
リリィが使っている部屋は、絵麻の部屋のちょうど向かいにある。鍵はかかっておらず、ドアノブを回すとあっけなく中に入ることができた。
紫苑色のベッドカバーとカーテン。チェストや棚の上の、白いレースの敷き物が部屋に彩りを添えている。
リリィはベッドの上にぼんやりと座っていた。
「リリィ」
リョウに声をかけられたリリィが顔を上げた。気遣わしげなその顔を見れば、リリィが何を聞きたいかは簡単に察せられた。
「大丈夫よ。絵麻だってそんなに簡単には倒れない」
リョウがかけた言葉に、彼女はほっと息をつく。
リリィは絵麻のことだけを案じているようだが、リョウに言わせれば、絵麻の態度に明らかに傷ついていたリリィのことも、同じくらいに心配だ。
「え? 全然何もしてないじゃない? だって、話もしてないんだから。ね?」
リョウがなぐさめても、リリィの少し悲しげな様子は変わらなかった。
「わかんないけど、リリィのせいじゃないってことは確か。だって何もしてないじゃない」
リリィはかすかに首を振って、悲しげに肩を落とした。
「絶対にリリィのせいじゃない。リリィが落ち込むことは全然ないんだよ?」
そう言っても、リリィは首を振るだけだ。
「……心の傷は癒せない、か」
その時だった。
「リリィ、いるか? リョウも」
ドアを叩く音と一緒に、信也の声がした。
「信也?」
リョウは戸口に歩いていくと、半分ほどドアを開けた。
「どうしたの?」
「翔が、話があるって」
「本人は?」
「自分の部屋に見せたいものがあるから来てくれ……だったかな」
「部屋?」
リョウが露骨に顔をしかめる。
「入れるの?」
「さあ」
リョウと信也は、翔とは同期にあたる。それゆえ、翔の散らかし癖がどのくらいのものなのかは、二人とも身にしみて知っていた。特に信也は部屋が隣合っている。
「行くだけ行くか」
「だね。リリィ、行こう?」
リリィを促すと、リョウは廊下を先ほどとは反対側に歩いて行った。
「入れるのかな」
「いつかみたいに、ドア開けただけで本が崩れてきたらやだな」
リョウの横に並びながら、信也が小さくぼやく。
「そういえば、あたしも足元にあったシャーレ踏んで割ったことあるのよね」
「書類ぐしゃぐしゃにしたこともあったような。悪いことばっかりだな」
「散らかしてるあっちも悪いから、お互い様ってことにしとこうか」
そんな事を言いながら笑いあう二人の後ろを、リリィは静かに歩いて着いてきた。
「翔? いるか?」
翔の部屋のドアを、信也がかつかつと叩いた。
「いるよ。入って」
「本当に開けていいんだな?」
ドアノブに手をかけながらも、信也は慎重だった。惨状を知っているであろう彼の心理は、リョウには手に取るように察せられた。幼なじみだからかもしれないが。
「うん。大丈夫だよ」
信也がおそるおそるドアを開ける。しかし、リョウが予想したような本の洪水も、書類の散乱もそこにはなかった。
「?」
「あれ?」
リョウがリリィと部屋をのぞきこむと、そこには見違えるような翔の部屋があった。ちゃんと床が見えて、ちゃんと整頓されていて、普通に歩ける。よく考えればそれで当たり前なのだが、新鮮だった。
「「どうしたの?」」
机の前の椅子に座っていた翔と、ドアの前にいた三人が異口同音に言った。
「なんで、みんなして廊下に固まってるの?」
「いや、考えてたのと違ってたから。何を考えてたんだっけ?」
「散らかってるのを想像してたんだけど。ま、いっか。入るよ」
言うと、リョウはさっさと部屋の中に入ってしまう。話が止まってしまうのは意味がない。
「ねえ、何でこんなに片付いてるの? あたし、翔の部屋の床はじめてみた」
「あ、絵麻が片付けてくれて」
翔が椅子から立ち上がると、手で三人を座るように促した。言葉に甘えて、リョウはリリィと一緒にベッドに座らせてもらうことにした。
「絵麻が?!」
「あの子、片付けもできるのか?」
「凄いよ。一時間くらいでここ片付けてくれて」
「この部屋を片付けたっていうんなら本物よね」
座る場所がなく、壁によりかかって目を丸くしている信也に同意して、リョウは頷いた。
「絵麻って何者なのかしら。結婚してるのかな?」
「聞いたけど、未婚だって言ってたよ」
「料理と掃除に引き続いて片付け……プロだな」
「そういえば、翔の用事って?」
脱線しそうな話を引き戻すべく、リョウは翔に話を振った。




