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今、そこにある雲

作者: 朝戸あんり

今、そこにある雲


『ケンイチ』のターン

「お父さん、そろそろ引っ越そうよ。通学路も近所の人たちも景色も何もかも、それ以上に、この、家に飽きた。景観、レイアウト、黒ずんでいるテーブルと椅子、浴室にこびりついている染み、変形した書棚、開けっぱなしの扉、埃のかぶったショーケース、ぜんぶ見飽きたよ。やっぱり人生には変化がなきゃいけないと思う」

「引っ越すのにもいろいろと大変なんだよ。だから我慢しろ」

 と一蹴(いっしゅう)されても、ボクは眉を吊り上げて、しつこく食い下がった。

「過去にも経験があるから、そんなことは知っている。これで最後にする、だからお願い、引っ越そうよ!」

「おいケンイチ……学校で、何かあったのか?」

「何もないよ。だけどボクには、必要なことなんだ」

 父親は大きな口を開け、酒臭い息を吐き、広い肩を落とし、皮張りのソファをギュギギと、鳴らした。ボクは、父親の返事を待ち、ずっと、その場に立っていた。しっかりと両足に体重を乗せて。

グラスを口に持って行き、ちらりと、ボクに視線を移し、飲まずにそのままテーブルに置いてから、父はあきらめたように言った。

「この家に、死んだ母さんとの思い出なんてないからな。よし、前向きに考えてみよう」

 その返事を聞いても、ボクに笑顔は、戻らなかった。


 優しい日差しを一身に受け、眼を細めながら、空を、見上げた。まだらに浮かぶ雲。鳥の鳴き声。いつもと変わらない同じ、朝、だった。

 停留所でバスを待つ。数分でやってきた。ほぼ毎日眼にしているのに、あの日以来、まるで、ボクを入れる棺桶(かんおけ)のようにしか見えなくなっている。

 ムッと、むせかえるような棺の中に足を踏み、入れた。

 やはり、居た。ボクの眼は、吸いつけられるかのように、天使のような顔をした悪魔を、とらえた。車内ではぜったいに顔を上げまいと誓っていたのに、どうしてボクはこうなんだろう。

 それからの十五分間は、息がつまる、思いだった。

 助けて、ください。見えない何かに願う。許してください。見えない何かに()う。無常なる世界に変化を与えてください。父親の顔が、脳裏に、ちらついた。

 部活もバイトもしていないボクにとって、学校と家だけが、《世界》だった。教師たちの張りきった顔、けだるそうな顔、必死な顔、時間だけを無下(むげ)(つい)やす顔。生徒たちの、異性に眼を輝かせる顔、未来を不安視する顔、目的を見つけ安堵している顔、まだ子供の顔。父親の、疲労にさいなまれている顔。それらがボクにとっての、すべてだった。

 そしてもうひとり、リリ、という同じクラスの子を、忘れてはならない。

 女神の顔をした、魔女。

 彼女は、ボクに、引っ越したいという願望を植え付けた。それから心に、深く、大きく、黒い穴を開けた、悪魔だ。学校までの短い距離。何度、彼女に視線を巡らせただろう。


「爆破予告の電話があったらしいぞ!」というクラスメイトの言葉によって、ボクの世界に何者かが土足で這入り込んできた。ガセだよガセ。なんの冗談? 驚かそうとしても無駄だよ。といった野次(やじ)が飛ぶ。女子はというと、大人しくしているが、冷静な観察と大きな包容力でもって事の成り行きを見守っているように感じた。男子と女子の温度差が眼に見えた。

ざわついている教室に、担任がやってきて、けだるそうに言った。

「みんな席について。え~これから伝えなければならないことがあります。今朝、学校に脅迫めいた電話がかかってきました。悪質ないたずらだとは思いますが、万が一を考えて、これから運動場へ避難します。あせらず、ゆっくりと行動を開始してください」

 行進は、日常会話、放課後の予定、異性の話題でもちきりだった。誰ひとりとして、緊張感を持っている者はいなかった。

 ボクたちの教室は三階にある。下級生を見下ろす位置。誰もが優越感に浸っていた。それは、もしかしたら、学校側の思惑なのかもしれない。そうやって、根拠のない自信を植え付け、卒業生たちの未来を成功させ、次の入学者を増やす。みんなは、その連鎖、誘導に、気づかず埋もれているだけなのかもしれない。教室を、一番高いところに持ってくるだけで、こうも人心(じんしん)を掌握するとは、ボクはその仕組みに、感嘆(かんたん)した。

 結局、いたずらでした、で、終わると思っていた。そう考えていたのは、ボクだけではなかったはずだ。しかし二階への階段の中ほどに差し掛かったとき、異変が、起こった。

 空気の振動。

 空気とは、そこに当たり前にあるだけで、ボクたちには自らの存在を隠している。静かに、だけどその身は全生物にとって、なくてはならない、優しい存在として。しかしこのときは違った。悪意のすべてを身に宿し、ボクたち人間に、襲いかかってきたのだ。

 ブルブルとほんの一瞬だけ震えた窓は、次の瞬間、軽い音を響かせて、いっせいに割れた。階段の途中にいた人たちは、悲鳴がしたほうを見上げ、あるいは見下ろし、廊下にいた人たちは、身体中から鮮血を滴らせ、喉がつぶれんばかりに叫んだ。

 場は、急変した。

それまでダラダラと行進を続けていた生徒たちが、我先に、いや、我こそは、と逃げ出したのだ。邪魔する者は退(しりぞ)け、または、蹴散らし、自分の命を守るために、罵声をあびせながら、障害物を排除しながら、全員が駆けだした。

 狂気の奔流(ほんりゅう)に呑み込まれ、ボクは自分の意思とは関係なく、下流へと流された。

 だけどここで、違和感に気づいた。ボクの左手にあるぬくもり。これは? 眼を向ける。人の手。顔を上げる。

 魔女。

 だけど魔女は、魔女に、見えなかった。一瞬、誰だかわからなかった。眼をしばたたかせ、もう一度しっかりと、見る。ボクの左手を握るのは、間違いなく、リリだった。

 自分でも驚いた。とても、信じられなかった。ボクの口から飛び出したのは、なんでボクの手を握っているの? ではなかった。なんでボクといっしょに逃げているの? でもなかった。離せ! と一瞬脳裏をよぎったのだけど、

「無事か、ケガはないかい。きっとボクが助けるから」だった。

 リリは、哀しい笑顔で、笑った。

 あちこちで起こる、爆発。映画やドラマ、マンガや小説などでは何度も眼にしていた、崩壊。現実は、違った。身体を刺激する破壊力。それらは、リアル、だった。五感に、触れるのは、恐怖と痛み以外のなにものでもなかった。

 悲鳴に混じる嗚咽(おえつ)。リリもまた、泣いていた。

「心配ない、ぜったいに救ってあげる」

 リリは普通の、女の、子だった。


 重軽傷者、おそらく全校生徒の半数以上。校門前に、無事、逃げ延びた者たちが身を寄せ合っている。その数からの推測だ。無事を喜び合う声はなく、すすり泣く音だけしか、耳に入ってこない。

幸運にも、否、不幸にもボクとリリは、無傷だった。

群れを成してやってきた救急車がボクたちを囲むようにして止まった。次々と運ばれて行く生徒たち。

「まだ安心はできない。早く遠くへ離れよう」

 黒煙を上げ、倒壊した校舎、血を流し、嗚咽をもらす生徒たちをしり目に、ボクは、リリを連れて駆けだした。

「ケンイチくん」リリが言う。「ワタシね、あなたのことを誤解していた。めったに笑顔を見せないから、怖い人だと思っていたの。だから、ね、あの日――」

「いいんだよそんなこと。黙っていないと舌を噛むぞ」

「ワタシのこと、許してくれる?」

 返事の代わりに、彼女の手を力強く、握った。


 急ピッチでプレハブ小屋が建設され、大惨事から一週間ほど経過して授業が再開された。教室は、とても広く感じた。空いた席を、まるで脳裏から排除でもするかのように、誰も、眼を、向けない。先生たちもまた、しかり。しかしそれでも、爆破された事実はしつこい脂のように落ちてくれない。みな、言葉をなくして、黙々、と授業を受けていた。

永い、永い、時間を耐え、下校時間になった。それでも誰も、嬉しそうな顔をせず、ただ静かに、席を立ってプレハブ小屋をあとにする。

 校門を出て間もなく、携帯電話が鳴った。よく聞こえるように、と、着信音は黒電話の音にしてある。早く出ろ、と怒っているような音をあたりに響かせている。早く止めようと電話に出る。黒電話が止まっても、大きな音は、消えなかった。

「今どこにいるのよ!」リリだった。「ちょっと……うるさいんだけど」「うるさくもなるわよ。今日は約束の日でしょ!」「約束の日?」「やっぱり忘れてる。お父さんに会わせるって言ってたじゃない!」

 それを聞いて、思い出した。

日常は、当たり前に来るものじゃない。先日の事件で、ボクはそう捉え、一日一日をもっと大切に過ごそうと考え、意味のある二十四時間にしようと、それから、みんなを安心させようと、リリとの交際を父親に伝えるつもりだったのだ。()いても後日、やり直せる、という都合の良い考えは、もう、持てないからだ。

 引っ越しの取りやめに父親は顔色ひとつ変えず、わかった、とだけ答えた。ボクの心の変化を深く追求してこなかった。安心、させるためなのか、すべてを悟っているのか、ボクにはわからない。だけど、ボクは父に、感謝の念、を抱いた。

 リリは思い込みが激しく、感情的な部分もあるのだけど、父親に会わせることに、なんの抵抗もなかった。否、自信を持って、交際しています、と伝えたかった。

 じゃあこのまま待ってるから、とリリに言って電話を切る。それから数分後、リリは駆けつけてきた。別に走って来なくてもいいのに、と思ったけど、あえてそれは口にしなかった。

 ボクたちは並んで歩き出した。あんなに、嫌悪のまなざしを向けていたリリの瞳が、今では(いつく)しみすら感じられる。それが、嬉しくもあり、また怖かった。

 二年前、交際中の相手に実は、彼氏がいたと発覚した。生きる気力を無くしたボクは、苦しみから逃れるため、部屋にずっと閉じこもっていた。食べ物も、飲み物も、()らなかった。

いよいよ命の危険を感じたとき、ドアの向こうから、父親がこう言った。

『若いころの恋愛っていうものは、長くは続かないから安心しろ。いくつもの困難を乗り越えて、それらが経験となり、いつか、きっといつか、最高のパートナーと巡り合うんだ』

 そんなことはいちいち言われなくてもわかっている。大人は、子供を、無知だと思いすぎだ。

ボクは今が、そのとき、だと確信していた。根拠はない。こうしてリリと交際することにな

っても、時折、失恋の影が鎌首をもたげることがある。それでも、リリだけは、違う、と確信

している。彼女を、信じている。それすらも、父親に言わせると、否、大人に言わせると、幼

い、となるのかもしれない。しかし、その真理は、当事者にしかわからない。ボクは、ボクの

想いを、信じる。

「ねえ、リリ」

「なあに?」

「付き合ってまだ数日だけど、そのうち、君と結婚したいと思っている」

 リリは、何かを考えるかのように、口をつぐんだ。その理由は、ボクにもわかる。

 結婚について自問自答したとき、ボクもまた、今のリリのように、止まってしまったからだ。頭の中では、警告音が鳴り響いている。若い。浅い。経験不足。いろいろな不安要素が渦巻いている。それでもボクは、今、心が感じているこの想いを、信じようと思う。これから先、ケンカをして危機を迎えるのは当たり前だ。広い社会に出て、さまざまな出会いを経て、心変わりするのも当たり前だ。大人になるにつれ、価値観が変わり、精神の成長があり、風貌もまた変化する。そんなことはわかり切っている。それらを踏まえた上で、ボクは、リリと結婚したい、と願っているのだ。だからこの想いを、決して、誰にも笑わせない。

「うん」と、リリはにこやかに答えた。

 それは、彼女の優しさだと理解した。でも、それで満足だった。

 ようやく、ボクの家が見えてきた。あんなに嫌っていた家が、今では安心感を与えてくれる。

また黒電話の騒音が響いた。着信音を変えようかと思いつつ、ボクは携帯電話をズボンのポケットから取り出した。ちょうど、そのときだった。

「あれって、なにかな?」

 その『何』とは、ボクにも判断がつかなかった。上空を走るいくつもの細長い雲。飛行機雲にしては、近いし、濃い。何所かで見たことがある。それは、実際に、という訳ではなく、映像かなにかで……。

 次の瞬間、あたりが光に包まれた。反射的に眼をつぶる。しかし異変は、それだけではなかった。

見えない『何か』が、壁のように(かた)くなって、ボクの肉体を吹き飛ばしたのだ。すでに経験があったので、『何か』が、空気だと気づいた。それが意味するものも、ボクは同時に思い至った。薄れゆく意識の中、リリの叫び声が、聞こえたような、気が、した。



   『オルコ』のターン

「今こちらに、旦那様が向かわれているそうですよ」

 赤ん坊の鳴き声と、ハスキーな看護師の声が入り混じり、一瞬、なんのことだかわからなかった。それでも看護師の次の行動で、ワタシの脳は冴えわたった。

「元気な女の子ですよ。はい、ママのところに行きましょうね」

 看護師が産まれたばかりの赤ん坊をワタシの胸元に運んできた。手を伸ばし、受け取る。

普通の親ならここで、感動の涙を見せるか、満面の笑みを浮かべるかの、どちらかだろう。だけどワタシは違った。自分の子を見て、正直、かわいいとは思わなかったからだ。

これまでも何度か、友人たちの出産に駆けつけ、新生児たちを見てきたが、みんな似通っていて《個》を感じなかった。自分の子どもだけは違うしまた区別がつくのだろうか? と(いぶか)しんでいたのだけど、けっきょく、いっしょだった。だからワタシがこのとき、どんな顔をしていたのかわからない。看護師の営業スマイルから連想もできない。それでも一応、『かわいい』とは思っているのだから、一応、笑顔にはなっていたと、思う。

 しばらく親子の対面を過ごしたあと、赤ん坊は新生児室に移された。

 子供の姿が消えた瞬間、まるで水面に上がったときのように、身体の重さが増加した。それから数秒後、ワタシは深い眠りに、ついた。


 タクヤが怒鳴っている。その理由は、とても些細なこと。会社の後輩に誘われて、ランチに行ったからだった。やましい心があれば話は別だったのだけど、そんな気はまったくなく、会議資料の提出期限が迫っていて、相談も兼ねての、どちらかというと仕事の延長だったのだ。

 細かいケンカの積み重ねにより、ワタシたちの仲は、険悪、とは行かないまでも、順調とも言えなかった。相手の口の聞き方に敏感になり、口数の減少に不満感がつのり、浮かばない笑顔にイライラし、いよいよ、この恋愛は、終わりが近いかもしれないと覚悟していた。

 ある日、友人を喫茶店に呼び出し、そのことを相談した。《自分もそういう経験あるんだけどこの時期を乗り越えればまたきっと元に戻るから》《いっかい冷静になって話し合えばいいよ》というアドバイスをもらった。一言も、別れれば? とは言わなかった。そうなのだ。ワタシは、別れたい訳ではない。再び、恋愛当初のように、笑顔でいられる日々が欲しかっただけなのだ。

 眼を大きく腫らし、家路についた。はたして、この恋愛は修復されるだろうか。不安は一歩一歩すすむたびに、増していった。

家へ到着し、案の定、そこに待っていたのは、罵声だった。

 タクヤは浮気を疑っていた。ワタシはそれを否定した。聞く耳を持たない。繰り返される説明。繰り返される、(ののし)り。なんとか興奮しないように、気を落ち着かせ、ワタシは何度も『誤解よ』を、繰り返した。

 タクヤが、もう出て行くからなこの浮気女! と一喝し、外へ飛び出した。ワタシは彼を追いかけ、玄関先で、嘔吐した。


 薄暗い部屋の中で、ワタシは眼を覚ました。熱いものが頬を、伝っている。激しい動揺、狂う動悸(どうき)が、今いる場所を忘失(ぼうしつ)させようとしていたが、遠くから響いてくる赤ちゃんの泣き声で、なんとか自我を保つことが出来た。

 今いる場所は、個室だった。景観から、病室だとわかる。

あたりはしんと静まり返っている。毛布のすれる音、遠くの泣き声以外に、何も、聞こえない。腰を、上げてみる。思ったより体力は落ちていなくて、なんとか立ち上がることが出来た。

「誰かいませんか?」

 部屋から出て廊下に出るが、どこにも、人の姿は見受けられない。

 部屋の番号は505、五階だ。周囲には患者部屋しか見受けられない。ナース・ステーションは奥なのだろうか。

 まだ足元はふらつく。一歩一歩を慎重に進める。倒れてしまうと、自分の力で立ち上がれる自信がなかったからだ。

短い廊下も、平らな地面も、ワタシの助けにはならない。壁に手をつき、体重を預ける。ゆっくりと、進む。廊下の先に、エレベーターのドアが見える。その手前の右側に階段がある。左には奥へと続く廊下。

ようやく隣の個室へ。504と書かれている。とりあえず、ノックしてみる。返事はない。あきらめて再び前進する。と、そのときだった。階段から昇ってきた医師がひとり。三十代の男性。見たことはない。

「あの、すみません。子供に会いたいのですが、新生児室はどこでしょうか」

 しかし、医師は口をパクパクとさせるだけで、何も答えない。その様子があまりにも異様で、ワタシも言葉を失ってしまった。何か、あったのだろうか。

「どうかしたのですか?」と、続けて質問するが、医師は口を動かすのをやめて、今度は固くむすんだ。その眼には、草食動物のような色が浮かんでいる。

「子供に、会わせてください。この赤ちゃんの泣き声はどこから聞こえてくるのでしょうか? そこへ、連れて行ってください」

 医師の脚が、ブルブルと、震えだした。

「ワタシの子供をどこへやったのよ返しなさい何で黙ってるのやましいことでもあるんでしょ許さないわよ!」

 なんでワタシはこうも取り乱しているのだろうか。

「この泥棒! 病院は安全な場所じゃないの? それとも何? あなたたちは子供を誘拐でもしてるの? ワタシの子供だけは渡さないわよ新生児室はどこなの案内しなさいしないなら力づくでも行くから覚悟してなさい許さないから許さない逃がさない」

 なんでワタシの眼から涙が出ているのかしら。

 (かす)む視界の中、医師は(きびす)を返し、血相を変えて階段を駆け降りた。

「待て。逃げるなこら!」と叫んだけれど、ワタシの声は薄暗い廊下に吸い込まれて、消えた。

 こうなったら自分の力で探さなくてはならない。

一歩進んでは止まり、また一歩を、踏み出す。エレベーターが迫ってくる。それに比例して、ワタシの意識も朦朧(もうろう)としてきた。でも、あきらめない。あきらめる訳にはいかない。だって、知ってしまったのだから。自分の気持ちに、気づいてしまったのだから。

 たった数秒でつくはずの距離を、どれくらいかかってしまったのだろうか。

 エレベーターのドアが開き、重い身体を中に入れる。肩で息をし、めまい、吐き気、その他もろもろが一気に襲ってきた。それでもなんとか腕を上げ、ボタンを押す。扉が閉じる瞬間、ワタシは、見た。

 綺麗に研磨(けんま)された、廊下に伸びる、血の、跡を……。

 扉が閉まり、視線を落とす。足元に、真っ赤な水たまりが出来ていた。

 ポーンと、悠長な音を立てて、扉が開いた。

 感覚のなくなっている足を動かす。外へ出て、思わず、立ちつくしてしまった。それもそのはず、ここは、屋上だった。押すボタンを間違えたらしい。

 外は、音がよく響いていた。耳を澄ます。すると、医師の様子が変だった理由の片鱗がわかった。

 爆発音、クラクション、それから悲鳴。

 それらを確かめるために、屋上の(へり)に近づいて見下ろす必要はなかった。

 視界に広がる黒煙(こくえん)、それから火柱。もうひとつ異常な光景があった。

空を覆う、いくつもの、いくつもの、飛行機雲。

一瞬ワタシの脳裏に《テロ》の言葉が浮かんだ。アメリカに起こった惨劇が、今度は日本に降りかかったのだ。

そうだ、タクヤ。

看護師がこちらに向かっていると言ってから、どれくらい経っているのだろうか。早くわが子を見たいに違いない。あんなに喜んでいたのだ、きっと待ち切れないだろう。

いや、そんなことよりも、オルコはどこ?

 そのとき、視界を埋めつくす閃光が、網膜に焼きついた。



   『ケンイチ』のターン2

 こんなところはボクの街じゃない。別の場所に飛ばされてしまったのだ。だから、心配することはないのだ。ボクの家が、見当たらなくても……。

 腰を上げるが、まだ、意識が、はっきりしていないようだ。グラグラと揺れている。それとも、揺れているのは世界のほうなのだろうか。

 コンクリートの塊と化した建造物は、すべて同じ方向になぎ倒されている。それはまるで、吹き返しのない台風が通りすぎたかのようだった。

 突然、ボクの視界の中に、リリの姿が入ってきた。必死に、口をモゴモゴと動かしているが、何も聞こえない。それを見て、実はボクはまだ意識を失っていて、今見ているこの風景などは、現実のモノではなくて夢なのだ、と思った。だけど、リリの手のぬくもりは、リアル以外の何物でもない。懸命に、何かを訴えようとしている。そこでおもむろに、ボクは両手で、自分の耳に触れた。ベトリと、濃厚な液体が手のひらにつく。手を下ろす。液体はどす黒い色をしている。ハッとして顔を上げた。リリはまだ何かを叫んでいる。

 無性に、リリの声を聞きたくなってきた。低いけど心安らぐ声。聞いていて安心する声。わくわくする声。優しさの、込められた声。神様は最初に言葉を作った。意志の疎通(そつう)に必要だから言葉を与えた。言葉こそが、神なのだ。という宗教の一節を思い出したけど、そんな大げさなことではない。彼女の声を聞きたい、ということに、理由はない。

 リリが携帯電話を取り出している。ディスプレイには、ボクの父親の名が表示されていた。

 それを確認して、ボクの眼から、熱いものが流れだした。

 人間が、本当に帰りたいと願う、いや、帰るべき『場所』は、愛する、者の、(そば)なのだ、とこのとき知った。

 黒電話の着信音があたり一面に鳴り響いているのだろう。今は、無事を証明するその音が、恋しい。


 バンバンと、リリがボクの肩を叩いた。その強さに驚いて、顔を上げると、彼女は、ガタガタと震えながら、上空を指差していた。



   『アーヴィン』のターン

「こちらタイタニック三号、ヒューストン聞こえるか? 我々はまたひとつ、地球に新たな歴史を刻んだ。ここからはオフレコで頼む。ヘイ、ジョセフ、月に宇宙人はいなかったぜ。やっぱりただの都市伝説だ。今のうちに行きつけのバーへ予約を入れておけよ」

「アーヴィン船長。ハッチが開きます」

「わかった、ブルース。お前も準備をしておけ。あまりの感動でショック死しても助けてやらないぞ。他人事のような顔をしているが、君もだぞ、キャシー」

「船長こそ、興奮で心臓に負担をかけないようにね。すぐに止まっちゃうわよ」

「言うようになったじゃないか。こちらタイタニック三号、ヒューストン聞こえるか? これよりミッションを開始する。眼前にはフラ・マウロ高知が見えている。マイガッ。美しすぎるよ。しかしヒューストン、今から俺様がマーキングしに行ってくる、犬のようにな。月面遊歩の許可を出したことを後悔しても遅いぞ」

「船長、早くしないと、第一歩は僕がもらっちゃいますよ」

「うちの操縦士はどうもせっかちだ。ヒューストン、これから月へ降りる。感動的な体験を、ウェブ・カメラで共有しようじゃないか。俺様からのささやかなプレゼントだ」

「アーヴィン船長、もう間もなく合衆国が真上に来ます。急いでください」

「わかったよ。それじゃあ、ブルース、キャシー、お先に失礼するよ」

「さあ、次は君にゆずるよ、キャシー」

「それは悪いわ、ブルース。無事に着地できたのは、あなたのおかげなんだから」

「僕だけの力じゃないさ。船長と君がいなければ、失敗に終わっていたはずだよ」

「そうだ。あなたと私で、同時に月へ降り立つ、というのはどうかしら?」

「いい提案だよ、キャシー。それで行こう」

「天然ガス、石油、レア・アース、シェールガスに続く、新しい資源を、私たちの地球に持ち帰りましょう」

「やっと来たか、ブルース、キャシー」

「どうしました、船長?」

「どうした、じゃないぞ、ブルース。どこかの先人(せんじん)が言ってたな。地球は青かった、と。そいつはとんだ大ウソつきだ」

「ジーザス……」

「なんてこと……」

「地球はまるで、果物の、メロン、だよ。ヒューストン聞こえるか? ヒューストン、ヒューストン、ヒューストン…………」



   『オルコ』のターン2

 ベタベタと、しつこく、とてもしつこく、ワタシの顔を触る、お母さんが嫌いだ。いくらイヤだと言っても、訊いてくれない。やめてよ! と怒鳴ると、哀しそうな表情を浮かべて手を引っ込めるのだけど、数分後には忘れてまたワタシの顔を触りだす。うんざりする。

 徐々(じょじょ)に、普通の会話が成り立たなくなってきている、大人たちが、嫌いだ。はじめのうちは気づかなかった。ただ、同じことを繰り返す癖でもあるのだろう、と楽観視していた。ところがそのような症状を出すのがひとりではないことを知ったあとから、異常さに、恐怖をおぼえるようになった。壊れた映像のように、同じ動作をなぞる。ひとつのセリフしか発せられないかのように、口が同じ言葉を発する。気が狂いそうになる。

 動物のような眼をして、中には四つん這いで動く、子供たちが、嫌いだ。ある日、シヨちゃんが廊下でおしっこをしているところに遭遇(そうぐう)した。何をしているの! と問い詰めると、彼女は、大きな笑い声を上げて、その場から逃げ去った。変、になったのは、シヨちゃんだけではない。前日は普通に会話を交わしていたヤーコフくん、アンヌちゃんも、翌日には、獣のような行動を取るようになっていた。なんの前触れもなかった。それを(とが)めない大人も、それから、もう人間とは思えない子供たちが、嫌いだ。どこかのおじいちゃんが、環境が変われば生態系もそれに順応する。ひひ、変わる変わる、なにもかもが別のものになる、ひひ。と言っていた。そういうものなのかしら、おかしいのは、ワタシのほう? と時々、疑わしくなってしまう。

 ずっと、うなり続けている、この世界が、嫌いだ。空気の浄化のために必要なことなのよ、とお母さんが言うけど、なんのことだかわからない。もっと大きくなったら、知るときが来るのかしら。だけど、生き続けることが、嫌いだ。そのことをお母さんに告げると、(ほお)を叩かれた。とても痛くて、涙が出そうになったけど、何故かワタシを叩いたお母さんが大泣きしていて、それを見ていると、涙が乾いた。まわりの人たちが次々と死んでいった七年間だった。これからもそれは変わらない……いいえ、これから先、もっと増えると思う。

 誰にも止められない死の連鎖。

 エリンちゃんという同じ年の女の子がいた。親友だった。彼女もまたワタシと同じように、変になっていく周りにいらだち、不安になり、やるせない想いを内に秘めている子、だった。

 ワタシと違うのは、彼女はとても行動的、ということだった。

 秩序を(ただ)そうと、妙な言動を繰り返す大人たちを叱った。四角い壁に囲まれた世界を細部まで知ろうと、徹底的に散策した。獣化して行く子供たちを、力ずくで矯正(きょうせい)しようとした。

 彼女の行動は、時折、度を超す部分もあったのだけど、すべては、正義のためだった。

 ある日、エリンちゃんは、子供たちに食べられた。

 エリンちゃんの取った行動は、間違っていたのだろうか。ワタシにはわからない。ただひとつ言えることは、正義が、牙をむいたのだ。

 死の連鎖は続く。

 ワタシには、自分のターンが来るのを、ただじっと待っていることしか出来、ない。



 大人たちが、嫌いだ。

 夜な夜な咆哮する子供たちが、嫌いだ。

 薄暗い、閉鎖的なこの世界が、嫌いだ。 

 定期的に大きな振動を起こす、外の世界が、嫌いだ。

ベタベタと、しつこく、とてもしつこく、ワタシの顔を触るお母さんが、嫌いだ。

 生きることが、嫌いだ。

 一度でいいから、青い空を見た、かった。



                              今、そこにある雲  了


初めて『小説家になろう』に投稿しました。

諸事情により、他のブログから引っ越してきました、あんりと申します。これからよろしくお願い致します。


最初の投稿ということで、どの作品をアップするか悩みました。

この作品が、一番好評だった、というわけではありません。


『今、そこにある雲』は、今だからこそ書かなくては! と唯一思った作品で、さらに、≪今読んで欲しい!≫と、思っている(願っている?)作品なので、選びました。(意味がわからない、と言われた作品のひとつでもありますが)


どこからがR15なのか、残酷描写になるのか、いまひとつ判断しかねますが、気づいた部分がありましたら、どんどん教えてください。おバカさんなので助けてください。あと、ジャンルはすべて文学で統一しようと思っています。SFでもホラーでも、ファンタジー、だけはファンタジーかな・・・


これからも定期的にアップして行きたいと思います。次は、不条理物の『歯』か、ホラーの『鏡女』でお会いしましょう。

最後に、読んでくださって本当に感謝しています。


あんりでした。ありがとうございます。

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