騎兵戦線「夢から醒めた藍」
植物の蓼藍を醗酵させて藍玉を作る。藍玉はすくもとも呼ばれる。藍の染料である。これに石灰と灰汁を加え、さらに醗酵させると藍液になる。布を浸して、乾かすことを十数度繰り返していけば、藍染めの完成だ。
葉俊は、藍色の衣を纏い、頭も同様に細い布を巻いていた。星明かりの下では、夜に溶け込む装いであった。
彼は木々の間をすり抜け、邸宅の窓に寄った。南側に面した壁は、わずかに日中の温度を伝えていた。
室内から漏れる光は強い。宮灯がいくつも置かれているからだ。宮灯とは、精緻な彫刻がされている照明具で、多くが女官の姿を模していた。壁際に狭い間隔で並べられており、闇を排除するのが目的であることも、調べがついていた。
邸宅の主は、夜に訪問する人間を怖れているのだ。闇に訪う使者は、凶事の主だ。命を絶ちに来る暗殺者から、光をもって遠ざけようと、照明を充実させていたのである。
呂賛は、寝台の上で油の臭いに包まれていた。上掛けを被り、目だけをせわしなく光らせていた。
油が燃えることによって出る煤は、宮灯の内部を循環する際に除去され、部屋を汚すことはない。だが、動物性の油から出る臭いだけは、取り除くことができなかった。嫌な臭いが部屋の中に溢れても、彼は灯りを減らすつもりはなかった。
呂賛は、央の第二王子である。だが、王族としての威厳は欠けらも見えなくなっていた。子供のように脅え、炎の揺らめきにも落ち着かない様子だ。侵略戦争の指揮官として、北方侵攻軍を担った人間とはとても思えなかった。
それもしかたがないことだ。彼は、失敗したのだ。
国家の事業が潰えたのは、彼が戦況を読めず、幕僚の言を入れなかったためである。それ故、敗将の責を問われることとなった。
表向きは、謹慎を言い渡されていた。戦に負けた王族として、屈辱を感じるのはわかる。だが、呂賛の怯えは、恥から来るものではなかった。
時期が悪かった。軍事的にも、政治的にも、領土拡大に乗り出していた時期だったのだ。国の内外への影響は大きく、したがって罪は重くなった。相応の罰が彼に用意されるはずだ。
歴史は語る。
先人の敗者は、謹慎中に事故死または病死していた。だから、呂賛は怖れるのだ。恐怖という側女に囲われ、逃れられない運命の中にいても、救いの手を女官の宮灯に求めた。明るすぎる居室が、自らの居場所を外界に知らしめていることにも気づかない。藍染めの衣を纏った者が、容易に目標を定められたとも知らない。
葉俊は星の瞬きの下で、いくつかの気配を知覚していた。彼と同じ藍染めの影が、茂みの虫の音を瞬かせた。邸宅を守る護衛の命が静かに消えていく。任務が遂行されつつあることがわかった。
呂賛には、直接的な恨みなどなかった。戦には時というものがあり、勝算があっても、負ける可能性はどこかにある。敗戦を責める気もない。ただ、殺意を否定する気もなかった。
国が決断した処刑を請け負ったのは、彼の心の中でのけじめだった。
呂賛を逃がすために、傷を負った者がいた。癒えることのない傷を受けた。仲間と呼ぶことができる数少ない人間がだ。
女騎兵は撤退する軍の殿で、敵陣営に一人立ち向かった。そして、兵士の波に潰された。囚われ、傷を負いながらも、生きていることがわかり、葉俊たちは彼女を救出した。
だが、本当に救われたのか、わからなかった。時折、紫蘭は死んでいたほうが良かったのではないかと考える。生きることの辛さを、終わらせてやるべきではなかったのかと。
葉俊の心は、今も苛まれている。生かしてしまったのは、本当は彼の欲だと気づいていた。紫蘭を失って苦しむのは、自分だ。もちろん、他の仲間も同じ思いかもしれなかったが、葉俊の感情は、彼らとは別のものだった。
撤退時、彼女のそばにいられたら、怪我をさせることもなかった。囚われることも、一騎で戦を挑むこともなかった。
だから、決めたのだ。彼女と共に駆けることを諦め、彼女を守る懐刀として生きることにした。
葉俊にとって、それは元の鞘に戻ることを意味した。暗部として生まれた彼は、元来、陰の存在である。紫蘭と出会ったことで、三騎兵の一人として表舞台に立つことを志したのだ。
振り返れば、短い夢だ。
ひとときの夢は終わった。陰の存在に戻り、彼女の影に潜むことになる。もう二度と、並んで立つことはない。
「誰だ!」
呂賛は物音に過敏に反応した。護衛を呼び寄せる。
「誰も来ませんよ」
葉俊はそっと窓辺から忍び寄った。
「ひっ」
音のしない気配に呂賛は言葉を失った。とうとう凶事が降りかかって来たことを理解した。灯りは役に立たなかった。
逃げだそうとして寝台から落ちた王子に、葉俊は憐れみも覚えなかった。
「誰か」
扉に這っていく呂賛の手が生温い血の海に浸った。扉の外から流れてきたものだ。廊下では、護衛たちが死んでいた。邸宅はすでに包囲されている。今夜ここで起きることの証言者は、一人もいない。
「やめろ!」
錯乱した呂賛が葉俊に飛びかかった。王子の手が藍染めの布を引きちぎった。
葉俊が避けようと思えば、簡単にかわせた。だが、あえてそうしなかった。
「お、お前は、三騎兵……葉俊ではないか!」
その称号と名を知らぬ者はいない。国内にとどまらず、隣国にも、林立する周辺国家にも知れ渡っていた。国家に仕える者として、王族とは極めて近しい存在だ。
「何故、お前が」
呂賛の青白い顔がさらに白くなった。思い出したのだ。指揮官である彼が敗戦で生き延びた理由と、犠牲にした者の名を。
「もう騎兵ではないのです」
絶望した男の首に短刀が突き立った。血飛沫が溢れ出し、葉俊の顔と衣を染めた。藍染めが黒く重く濡れた。
倒れた王子を一顧だにせず、邸宅を後にした。これでひとつの区切りがつけられた。そして、ここからが新しい始まりだった。
葉俊の背後で、炎が上がった。暗部の同胞たちの幕引きだろう。今回の仕事は国王自らの依頼だ。証拠を潰す必要もなかったのだが、彼らの流儀はそれを由としなかった。
藍染めの男が片膝をついていた。他の者たちはすでに街に消えている。
「戻りましたか」
葉俊は呟いた。
腹心の帰参を確認したものか、古巣への帰還を自らに告げたのか。
短刀の血を拭い、懐に収めた。今や、それがただひとつの刃だった。馬を駆る時、背負っていた太刀は仲間に託していた。
「私は少し消えます」
頭領の言葉に、部下の頭が上下した。どこに行くのかという無粋な問いはない。
燃え広がり始めた炎が、葉俊の影を夢幻のごとく揺らしていた。