「父の眼差し、娘の覚悟」
父ハルムが平壌に現れたという報せを聞いたとき、私は思わず帳面を落としそうになった。
「あの方は一度気になりだすと、自分の目で確かめないと気が済まない質でな」
師匠チャリムが、楽しそうに髭を撫でた。
翌日、宮廷の離れで父と再会した。父は領主としての威厳を纏いながらも、私の顔を見るなり「痩せたのではないか」「米は足りているか」と矢継ぎ早に問いかけてきた。
「お父様、私は記録係です。戦いに行っているわけではありません」
「ふん。記録とは精神を削る仕事だ。ハリムの娘が、粗末な仕事をしていては困るからな」
そう言いながら、父の目はどこか安心したように細められていた。
その夜、父はソハンと会食の席を共にした。
ソハンは完璧だった。父の好きな酒を用意し、地方領主が抱える悩みに的確な代案を提示してみせた。父は満足げに頷き、彼を「国の宝」と称賛した。ソハンの微笑みは相変わらず非の打ち所がなく、父の信頼を完全に勝ち得たように見えた。
しかし、運命の歯車は思わぬところで回る。
翌朝、父が王宮の練兵場を視察していたとき、門番として立っていたのがトルムだった。
トルムは父の威圧感に気圧されることなく、ただ真っ直ぐに職務を遂行していた。父がわざと足早に横を通り過ぎ、その肩を強く叩いたとき、トルムは微動だにしなかった。
「……名は」
父が低く問うた。
「トルム。先日の武官試験にて採用されました」
「百姓の出か」
「はい。しかし、この槍は民を守るために振るいます」
父は何も言わず、ただ数秒間、トルムの目を見つめた。そして、ふいと背を向けて立ち去った。
帰路につく直前、父は私を呼び止めた。
「ナリン。ソハン殿は賢い。お前の将来を安泰にする男だろう」
私は胸が締め付けられる思いで、視線を落とした。
「だが」
父は続け、少しだけ困ったように笑った。
「あの門番の男……トルムと言ったか。あやつは、昔の私に似て不器用な目をしていたな」
父は馬に跨り、最後に私の肩に手を置いた。
「お前の人生だ。記録係なら、結末まで自分で書いてみせろ。……お前の好きにしろ」
その言葉を残し、父の騎馬隊は砂塵を上げて去っていった。
私は、父の背中が見えなくなるまで見送り、それから震える手で帳面を開いた。
『父は知っていたのだ。言葉の美しさよりも、背中の強さが物語る真実を。』
『「好きにしろ」という言葉。それは、私が初めて手に入れた、自由という名の重い責任だった。』




