影の勧誘
宮廷の庭園には、沈丁花の香りが立ち込めていた。
武官試験の合格を祝う宴が催され、高価な酒と料理が振る舞われている。だが、その華やかさの影で、私は師匠から授かった小さな帳面を手に、闇に紛れていた。記録係の仕事に、休みはない。
池のほとり、柳の木の下に、独り佇む背中があった。トルムだ。
支給されたばかりの武官の正装が、彼の逞しい体にはまだ馴染んでいないように見えた。彼は宴の喧騒を避けるように、ただ静かに月を見上げていた。
「――実に惜しいな。その才能を、ただの衛兵として腐らせるのは」
闇を裂いて現れたのは、ソハンだった。
彼は月の光を吸い込むような銀色の装束を纏い、いつもの完璧な微笑を浮かべてトルムに歩み寄った。私は息を殺し、茂みの陰で筆を構えた。
「ソハン殿か」
トルムの声は低く、警戒を孕んでいた。
「トルム殿。君のような『土の龍』には、相応しい雲が必要だ。どうかな、私の父を通じて、君を特別な任に就けるよう手配しよう。金も、名声も、そして君が今見上げている『高嶺の花』に届く梯子も、私が用意してやれる」
ソハンが、私の名を仄めかした。心臓が跳ねた。彼はトルムの野心を刺激するために、私を「報酬」の一部として扱ったのだ。
だが、トルムは動じなかった。彼はゆっくりとソハンを振り返り、その真っ直ぐな瞳を向けた。
「お断りします」
「……何?」
「俺は、石を投げて雀を追い、土を耕して生きてきた男です。あんたが言う『梯子』がどんなに立派でも、その足場が誰かの涙でできているなら、俺は一歩も登りたくない」
一瞬、庭園の空気が凍りついた。
ソハンの微笑が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。
「……そうか。君は自分が思っている以上に、愚かな男らしい」
ソハンは背を向け、去り際、一瞬だけ立ち止まった。
その横顔を、私は見逃さなかった。
いつも優しく細められていたその瞳は、今や毒蛇のように細く、底知れぬ悪意を宿していた。唇は笑みの形を保とうとしているが、目は一分も笑っていない。その不気味な不一致に、私は全身に鳥肌が立つのを感じた。
ソハンが去った後、トルムは深く溜息をつき、また月を見上げた。
私は暗闇の中で、震える手で帳面に書きなぐった。
『光を背負った男が、今日、真の影を見せた。』
『ソハンの瞳には、人の心を食い潰す冷徹な闇がある。』
『そしてトルムは、その闇に独りで立ち向かおうとしている。』
私は、自分がこれから記録すべきものが、単なる宮廷の行事ではなく、この国の屋台骨を賭けた凄惨な戦いになることを確信した。




