表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『高句麗王宮秘録 —— 碧き瞳の記録者ナリン』  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/11

影の勧誘

宮廷の庭園には、沈丁花の香りが立ち込めていた。

 武官試験の合格を祝う宴が催され、高価な酒と料理が振る舞われている。だが、その華やかさの影で、私は師匠から授かった小さな帳面を手に、闇に紛れていた。記録係の仕事に、休みはない。

 池のほとり、柳の木の下に、独り佇む背中があった。トルムだ。

 支給されたばかりの武官の正装が、彼の逞しい体にはまだ馴染んでいないように見えた。彼は宴の喧騒を避けるように、ただ静かに月を見上げていた。

「――実に惜しいな。その才能を、ただの衛兵として腐らせるのは」

 闇を裂いて現れたのは、ソハンだった。

 彼は月の光を吸い込むような銀色の装束を纏い、いつもの完璧な微笑を浮かべてトルムに歩み寄った。私は息を殺し、茂みの陰で筆を構えた。

「ソハン殿か」

 トルムの声は低く、警戒を孕んでいた。

「トルム殿。君のような『土の龍』には、相応しい雲が必要だ。どうかな、私の父を通じて、君を特別な任に就けるよう手配しよう。金も、名声も、そして君が今見上げている『高嶺の花』に届く梯子はしごも、私が用意してやれる」

 ソハンが、私の名をほのめかした。心臓が跳ねた。彼はトルムの野心を刺激するために、私を「報酬」の一部として扱ったのだ。

 だが、トルムは動じなかった。彼はゆっくりとソハンを振り返り、その真っ直ぐな瞳を向けた。

「お断りします」

「……何?」

「俺は、石を投げて雀を追い、土を耕して生きてきた男です。あんたが言う『梯子』がどんなに立派でも、その足場が誰かの涙でできているなら、俺は一歩も登りたくない」

 一瞬、庭園の空気が凍りついた。

 ソハンの微笑が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。

「……そうか。君は自分が思っている以上に、愚かな男らしい」

 ソハンは背を向け、去り際、一瞬だけ立ち止まった。

 その横顔を、私は見逃さなかった。

 いつも優しく細められていたその瞳は、今や毒蛇のように細く、底知れぬ悪意を宿していた。唇は笑みの形を保とうとしているが、目は一分いちぶも笑っていない。その不気味な不一致に、私は全身に鳥肌が立つのを感じた。

 ソハンが去った後、トルムは深く溜息をつき、また月を見上げた。

 私は暗闇の中で、震える手で帳面に書きなぐった。

『光を背負った男が、今日、真の影を見せた。』

『ソハンの瞳には、人の心を食い潰す冷徹な闇がある。』

『そしてトルムは、その闇に独りで立ち向かおうとしている。』

 私は、自分がこれから記録すべきものが、単なる宮廷の行事ではなく、この国の屋台骨を賭けた凄惨な戦いになることを確信した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ