忍び寄る縁談
書庫の窓から差し込む陽光には、無数の塵が躍っていた。
私は古くなった戸籍の写しを整理しながら、紙の擦れる音に耳を傾けていた。この静寂こそが、記録係に与えられた特権だと思っていた。
「ナリン、故郷から便りだぞ」
チャリム師匠が、一枚の書状を差し出した。父ハルムからの手紙だった。
父の文字は、剣筋のように力強く、一点の濁りもない。だが、その内容は、私の心に冷たいさざ波を立てた。
『平壌での修行、励んでいることと察する。先日、代官殿より丁重な挨拶を受けた。その折、息子のソハン殿とも語らったが、あれほどの若者は類を見ぬ。私の治める領地の水利問題についても、彼は私にない視点で助言をくれた。代官殿は、我ら両家がより深い絆で結ばれることを望んでおられるようだ。ナリン、お前も宮廷で彼と会う機会があろう。良き縁となるよう、心に留めておくがよい。』
私は手紙を握りしめた。
父は、嘘を知らない人だ。だからこそ、洗練された「善意」という仮面を被った男には、誰よりも脆い。
ソハンは、私に直接言葉を尽くすのではなく、まず外堀を埋め、父という最大の味方を手に入れたのだ。その周到さに、背筋が凍る思いがした。
「……何か、顔色が悪いな」
チャリム師匠が、筆を置いて私を見た。
「師匠。ソハン殿が、父に接触したようです」
「ほう。代官の息子か。彼は賢い男だ。自分が欲しいものを手に入れるために、どの鍵を回すべきかを知っている」
「彼は、私を見ているのではありません。父の領地、そしてハルムの名声を欲しているのではないでしょうか」
私は帳面を開き、震える手で記した。
『糸が引かれている。目に見えない細い糸が、私の家族を、そして平壌の権力構造を絡め取ろうとしている。』
その時、ふと、あの路地で見たトルムの背中を思い出した。
彼は土にまみれ、何の見返りもなく子供を助けていた。ソハンのように糸を引くことも、自分を飾ることも知らぬ男。
宮廷の豪華な食卓よりも、あの青年が握っていた素朴な木彫りの玩具の方が、今の私にはずっと「真実」に近いものに思えてならなかった。
「師匠。私は……自分の目で、もう一度彼を――ソハン殿を確かめなければなりません」
「いいだろう。だが気をつけろ。真実を暴こうとする者は、しばしば深淵に飲み込まれる」
私は父への返信を書けぬまま、その夜、長い溜息を吐いた。




