受け継がれる筆
ハリボルの地を渡る風は、花の香りと共に民衆の歓声を運んできた。
かつての島から流れ着いた民、そしてこの地に根を張った百姓たち。誰もが、ナリンとトルムの婚姻を自分たちのことのように喜んでいた。それは単なる身分の高い娘と武官の結婚ではなく、この「高句麗」という国が、本当に誰もに道を開く場所になった証だったからだ。
領主館の縁側で、ハルムは一人、遠くの賑わいを見つめていた。
「……お前の好きにしろ、か」
自ら放った言葉を反芻し、ハルムはふっと目を細めた。
かつては娘の将来を案じ、堅牢な城を築くことばかりを考えていた。だが、ナリンは自らの筆と、自ら選んだ男と共に、城よりも遥かに強固な「未来」を築いてみせた。父はただ、静かに酒を煽り、風に吹かれていた。
同じ頃、王宮の深い静寂に包まれた書庫では、二人の記録者が向き合っていた。
婚礼の鮮やかな衣装を纏ったままのナリンと、白髪の増えた師匠チャリムだ。
「ナリン。今日でお前は弟子を卒業だ」
チャリムは、長年使い古され、持ち手が黒ずんだ一本の筆を差し出した。
「これは、私がトムル様の足跡を追い始めた時から使っているものだ。……これからは、お前が持ちなさい」
ナリンは震える手でその筆を受け取った。その重みは、高句麗という国の興亡と、そこに生きた人々の汗と涙の重さそのものだった。
「師匠……。私は、これからも書き続けます。光の中にいる英雄だけでなく、影でこの国を支える人々の物語を」
「ああ。それでこそ私の弟子だ」
ナリンは、今日までの自分の物語が記された帳面を開いた。
トルムとの出会い、ソハンの闇、そして父の愛。すべてを書き終えた後、彼女は師匠から受け継いだ筆で、最後の一行を力強く記した。
『師匠、私はまだ記録を続けます。』
その文字を見たチャリムは、満足そうに頷き、ナリンの手元から帳面をそっと引き寄せた。そして、その余白に、師として、そして一人の友人としての追記を添えた。
『良い弟子を持った。チャリム』
窓の外からは、遠く民衆の祝いの声が、波のように寄せては返していた。
記録係の精神は、一本の筆と共に、青い瞳の女性へと受け継がれた。
高句麗の歴史が続く限り、この系譜が途絶えることはないだろう。




