第9話:断腸の稜線(ハートブレイク・リッジ)
第9話:断腸の稜線
1951年9月:血の稜線から地獄の深淵へ
1994年の東京。航がめくる日記の手触りが変わった。湿気を吸い、何度も乾燥を繰り返したせいか、紙が石のように硬く、めくるたびにバリバリと悲鳴を上げる。
「血の稜線」での凄惨な激闘を終えたのも束の間、正造とヨンチョルを待ち受けていたのは、さらにその北方にそびえる「931高地」――米兵たちが**「断腸の稜線」**と名付けた、呪われた連山だった。
「1951年9月13日。江原道。
『血の稜線』を越えれば終わると思っていた。だが、その向こうには、さらなる地獄の牙が待ち構えていた。
切り立った断崖が連なるその稜線は、心臓をえぐるような絶望を与えると誰かが言った。だから『断腸』なのだと。
米軍の重砲が山を削り、形を変えるほど撃ち込んでも、敵は蟻のように地下から湧き出してくる。
私とヨンチョルは、崩落した陣地の再構築と、地雷原の敷設のために再び死の斜面を登り始めた。」
砕かれる精神
「断腸の稜線」での戦いは、もはや人間としての尊厳を維持できる限界を超えていた。
急峻な地形のため、補給は滞り、兵士たちは雨水とわずかな乾パンで飢えを凌いだ。正造の仕事は、爆薬を使って岩盤を穿ち、即席のトーチカを作ることだったが、爆破の衝撃で崩れ落ちた土砂の中から出てくるのは、昨日の友軍であり、あるいは数時間前にそこを占拠していた敵兵の「残骸」だった。
ヨンチョルは、もはや涙を流すことさえ忘れていた。
爆風で片方の耳の聞こえが悪くなった彼は、正造の影にぴたりと張り付き、機械的に土嚢を積み上げる。
「おじいちゃん、あそこの岩陰に誰かいるよ」
ヨンチョルが指差す先には、敵味方の区別もつかないほど泥にまみれ、立ったまま事切れた兵士がいた。
「見るな。手を動かせ。止まれば、お前もああなる」
正造の言葉は、かつての山崎大尉のように冷徹になっていた。そうでなければ、この「断腸」の山で正気を保つことは不可能だった。
「10月某日。
夜になると、谷の底から呻き声が聞こえる。死にきれない者たちの声か、それともこの山そのものが泣いているのか。
我々は、たった数メートルの尾根を奪うために、金少尉が守り抜いた命を切り売りしている。
工兵としての私の技術は、今や効率的に人を埋めるための技術に成り下がった。
ヨンチョルの目が、濁ったガラス玉のようになっていく。私が彼に見せたかったのは、こんな真っ赤な山ではなかったはずだ。」
稜線の再会:亡霊の正体
ある激しい砲撃の夜、正造は前方の塹壕が決壊したとの知らせを受け、補修のために最前線へと這い出した。
照明弾が空を切り裂き、青白い光が稜線をさらけ出したその瞬間、正造は数メートル先の岩陰に、信じられない影を見た。
そこにいたのは、北朝鮮軍の制服をボロボロに纏い、顔の半分を火傷で歪ませた男だった。
その男は、土の中から掘り出した「何か」を、愛おしそうに懐に収めていた。
「……山崎、さん?」
正造の声は、砲声にかき消された。
だが、その男は確かに振り返った。パルミ島灯台で、崩落の中に消えたはずの亡霊。
山崎大尉は、死を許されぬまま、この地獄の稜線を彷徨い続けていたのか。
山崎が持っていたのは、小さな、古びた日本の五円硬貨だった。
彼はそれを正造に見せるように掲げ、声にならない笑みを浮かべた。
「……正造……。ここには……帰る場所など……どこにもないぞ……」
その直後、巨大な榴弾が二人の間を隔てるように着弾した。
土柱が舞い上がり、視界が遮られる。土煙が晴れたとき、そこには抉り取られた地面があるだけで、山崎の姿は影も形もなかった。
1994年5月:東京
航は、日記のページを捲る手が止まり、激しい動悸に襲われた。
日記の間に挟まっていた「五円硬貨」。それは、朝鮮の深い山奥で、祖父がかつての恩師の「最期の欠片」として拾い上げたものだったのだ。
「1951年10月中旬。断腸の稜線、陥落。
ようやくこの山を降りる許可が出た。
私は、山崎さんが消えた場所に落ちていた五円玉を拾い、泥を拭った。
それは、彼が日本という故郷を繋ぎ止めるために持っていた、最後の未練だったのかもしれない。
私は決めた。ヨンチョルを連れて、この半島を出る。
このままここにいれば、私も、この子も、いつかあの亡霊たちの仲間入りをしてしまうだろう。」
航は、机の上に置かれた五円硬貨を指でなぞった。
昭和二十年代の刻印がある、色褪せた硬貨。
それは、凄惨な「断腸の稜線」から、祖父が唯一持ち帰った、あまりにも重い「平和への対価」だった。




