表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『38度線の境界人(きょうかいじん) ―祖父が遺した朝鮮戦争の日記―』  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/11

第8話:血の稜線

第8話:血の稜線

1951年8月:終わりなき消耗戦

1994年の東京。わたるがめくる日記のページは、ここに来て再び不穏な赤黒い色に染まり始めた。

坡州パジュで束の間の「飯屋」を再開した正造だったが、歴史の非情な歯車は、彼を再び前線へと引きずり出した。連合軍と共産軍の間で停戦交渉が始まったものの、それは平和の訪れではなく、「一寸の土地」を奪い合うための、より凄惨な局地戦の幕開けに過ぎなかった。

日記に刻まれた文字は、これまで以上に荒々しく、呪詛に近い響きを帯びている。

「1951年8月18日。東部戦線。

我々は今、地図上では名もない、ただ『983高地』と呼ばれる場所にいる。

米軍の将校はここを『ブラッディ・リッジ(血の稜線)』と呼んだ。

文字通り、この斜面を流れる水は、すべて兵士たちの血で赤く染まっているからだ。

昨夜奪った高地を、今朝は奪い返される。尾根一つを確保するために、数百の若者が泥人形のように積み重なっていく。

私は再び工兵として、この地獄に陣地を築くよう命じられた。」

泥と鉄の迷宮

正造とヨンチョルが送られたのは、江原道カンウォンドの峻険な山岳地帯だった。

かつてのような華々しい進軍も退却もない。あるのは、地下深くまで掘り進められた塹壕と、容赦なく降り注ぐ重砲弾の雨だけだった。

正造の任務は、岩盤を削り、敵の砲撃に耐えうる地下壕を作ることだった。しかし、掘り進めるたびに、数日前に戦死した兵士たちの遺品や、土に埋もれた肉片が突き当たる。

「おじいちゃん、またこれだ……」

ヨンチョルが土の中から掘り出したのは、錆びた認識票と、家族のものと思われる古ぼけた写真だった。

正造は無言でそれを受け取り、懐にしまった。もはや、敵も味方も関係なかった。この山そのものが、巨大な墓標になりつつあった。

「8月30日。豪雨。

雨は血を洗い流すのではなく、泥と混ぜ合わせて、防護服を重く、冷たく変えていく。

敵の攻撃は執拗だ。彼らは死を恐れず、笛の音と共に霧の中から現れる。

私は地下壕の入り口に座り、爆薬の設置を待つ間、ずっと手のひらを見つめていた。

うどんを打っていた時の温かな手の感触は、もう思い出せない。

ただ、冷たい鉄と、湿った土の感覚だけが私の正体になってしまった。」

稜線の灯火

ある夜、凄まじい夜襲が始まった。

「血の稜線」のいたる所で照明弾が上がり、一瞬だけ昼間のような明るさが山を照らし出す。その光の下で、正造は見てしまった。

反対側の稜線で、必死に土を掘り返している敵兵の姿を。

彼もまた、正造と同じように泥にまみれ、震える手で身を守るための穴を掘っていた。それは数ヶ月前の自分であり、死んでいったキム少尉の姿でもあった。

「正造! 爆破しろ! 敵がそこまで来ている!」

米軍の指揮官の叫び声が響く。

正造は起爆装置を握りしめた。これを押せば、目の前の斜面ごと、あの穴を掘っている男も、その背後にいる数百の命も吹き飛ぶ。

だが、その時。正造の耳に、幻聴のようにあの声が届いた。

『生きて、温かいうどんを食わせてやってくれ。』

金少尉の最期の言葉。

正造は、目を閉じた。そして、引き寄せられるようにスイッチを押した。

轟音と共に大地が裂け、火柱が夜空を焦がした。

1994年5月:東京

「血の稜線……」

航は、その言葉の重さに息が詰まった。

歴史の授業で習う「朝鮮戦争」の四文字の裏側に、これほどまでに執拗で、出口のない泥沼の戦いがあったことを。

祖父が戦後、一度も争い事を好まず、声を荒らげることもなかった理由が、ようやく分かった気がした。

「9月5日。血の稜線の戦いが終わった。

数千の犠牲を払い、我々はたかだか数百メートルの前進を勝ち取った。

だが、誰も笑っていない。

生き残った私とヨンチョルは、ただお互いの顔を見て、泥だらけの身体で立ち尽くしていた。

私たちは勝ったのではない。ただ、死に損なっただけなのだ。

日記に書く言葉が、もう見当たらない。」

航は、日記のページをめくるのを躊躇した。

そこには、正造がその戦場から持ち帰った「あるもの」が、薄い紙に包まれて貼り付けられていたからだ。

それは、あの血の稜線の土の下から掘り出された、小さな**「日本の五円硬貨」**だった。

「なぜ、朝鮮の山の中に、日本の硬貨が……?」

航の疑問に答えるように、日記の次のページには、正造が帰国を決意することになる、最後にして最大の事件が記されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ