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『38度線の境界人(きょうかいじん) ―祖父が遺した朝鮮戦争の日記―』  作者: 水前寺鯉太郎


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第7話:灰の帰還と第3次ソウルの戦い

第7話:灰の帰還と第3次ソウルの戦い

1951年1月:凍土の1・4後退

1994年の東京。わたるがめくる日記のページは、黒いすすがこびりついたように汚れ、凍った指先が紙を破った跡で無惨に荒れていた。1951年1月。年が明けても、朝鮮半島に春の兆しは微塵もなかった。中国人民志願軍の圧倒的な物量と「人海戦術」の猛攻の前に、国連軍は平壌に続き、再び首都ソウルをも手放そうとしていた。歴史に言う「1・4後退」である。

> 「1951年1月3日。吹雪。

> ソウルが、再び地獄に飲み込まれようとしている。

> 連合軍の殿しんがり部隊に組み込まれた私は、凍てついた漢江ハンガンに架かる橋を再び見つめていた。そこには半年前、爆破に失敗したあの灯台と同じ、破壊の予感だけが満ちている。

> 壊滅した第2中隊の生き残りは、今や私とヨンチョルだけだ。米軍の工兵隊に混じり、撤退を支援するための爆破準備を進める。指先は感覚を失い、金属に触れるたびに皮膚が張り付いて剥がれる。

> 背後には、家を追われ、寒さに震えながら南へ向かう数万の避難民。その群れの中に、かつての坡州パジュの店で笑っていた客たちがいないか、必死に探してしまう自分がいる。もし見つけたとして、今の私に何ができるというのか。」

>

第3次ソウルの戦い:命を削る市街戦

ソウル市街地は、再び戦火に包まれた。これを「第3次ソウルの戦い」と呼ぶ。北朝鮮軍と中国軍の波が、凍てついた漢江を越えて押し寄せてくる。かつて平和を謳歌した首都は、今や巨大な屠殺場と化していた。

犠牲者は、日に日に、いや刻一刻と増えていった。

路地裏には、誰のものかもわからない遺体が雪に埋もれ、凍りついている。瓦礫の山となった大通りでは、米軍の重機関銃と中国軍の波が正面からぶつかり合い、一寸の土地を奪い合うたびに、数百の命が火花のように消えていった。

正造とヨンチョルが配属された急造部隊は、ソウル北方の路地を一画ずつ死守するよう命じられていた。しかし、押し寄せる敵の数は桁外れだった。闇夜に響く中国軍の喇叭らっぱと太鼓の音が、建物の間に反響し、兵士たちの精神を狂わせるほどに削り取っていく。

「おじいちゃん、あっちからも……こっちからも来る! きりがないよ! 撃っても撃っても減らないんだ!」

ヨンチョルが凍えた指で、暗闇から這い出してくる無数の影を指差す。

「気にするな、ヨンチョル。数えるな。目の前の影だけを見ろ。引金を引くのをやめるな! 止めれば自分と私が死ぬと思え!」

正造は、米軍から支給されたM1ガーランドを構えながら、かつてキム少尉が自分たちを守るために命を散らした、あの雪原を思い出していた。

いま、自分がここで崩れれば、この少年は二度と故郷の土を踏めない。その一念だけが、疲弊しきった正造の身体を動かし続けていた。

> 「1月4日。ソウル撤退。

> 市街地は炎に包まれ、美しい建物が瓦礫の山へと変わっていく。熱風が頬を叩くが、足元は死ぬほど冷たい。

> 私は、米軍の軍曹が『全てを破壊しろ(Destroy everything)』と叫ぶのを聞いた。

> 敵に何も残さないための焦土作戦。昨日まで誰かの生活の場だった家々が、我々の手で焼かれていく。

> 犠牲者の山を乗り越えて後退する。もはや敵も味方もない。ただ、動かなくなった肉体の塊が雪を黒く染めているだけだ。

> 金少尉、あなたはこんな光景を望んでいたのか。この途方もない犠牲の先に、一体何があるというのか。」

>

絶望の中の「約束」

激しい市街戦の最中、正造とヨンチョルは一時的に本隊から孤立した。崩れ落ちたレンガ造りの建物の影に身を潜める二人の前を、中国兵の偵察隊が、白い息を吐きながら通り過ぎていく。

ヨンチョルは、恐怖と栄養失調で、歯の根が合わないほど震えていた。その顔は土色に変色し、目だけが異常に大きく落ち窪んでいる。

「おじいちゃん……僕、もうお腹が空いて動けないよ。……ここで、少尉のところに行ってもいいかな。少尉なら、暖かいところで待っててくれる気がするんだ……」

正造は、泥と煤で汚れたヨンチョルの顔を、力強く両手で包み込んだ。その手は氷のように冷たかったが、正造は心臓の鼓動を伝えるかのように懸命に力を込めた。

「馬鹿なことを言うな。ヨンチョル、聞け。戦争が終わったら、私は日本へ帰る。だが、その前に必ず坡州パジュへ戻るんだ。あそこに残した私の店で、お前に最高のうどんを食わせてやる。出汁の匂いを思い出せ。小麦を打つ音を思い出せ。……だから、それまでは死なせない。絶対だ。いいな?」

「うどん……おじいちゃんの、あの白くて、温かいうどん……?」

少年の瞳に、一瞬だけ生気が灯った。

それは、凄惨な戦場において唯一、人間らしい響きを持った「約束」だった。イデオロギーや国家の誇りなどよりも、一杯の温かい麺の記憶が、死の縁にいた少年をこの世に引き戻したのだ。

1994年5月:東京

「……犠牲者の碑、か……」

航は、日記の余白に小さく描かれた、一杯のうどんの絵と、その横に記された無数の正の字を見つけた。それは、その日一日に失われた戦友たちの数か、あるいは通り過ぎた遺体の数だったのかもしれない。

> 「この約束が、私とヨンチョルを南への長い逃避行に繋ぎ止めた。

> 国家のイデオロギーも、軍人の名誉も、空腹の少年の前では何の役にも立たない。

> 犠牲者が増えるほど、私の心は冷たく、硬い石のように固まっていった。だが、一杯のうどんという『日常』の象徴だけが、私を狂気から繋ぎ止めていたのだ。私は、軍人として死ぬのではなく、飯屋として生き残らねばならなかった。」

>

航は、ふと手を止めて、キッチンの方を向いた。

そこからは、母親が夕飯を作る音が聞こえてくる。包丁がまな板を軽快に叩く音、湯気の上がる鍋の蓋が鳴る音。

その当たり前すぎて意識もしていなかった音が、半世紀前の祖父にとっては、日に日に増える犠牲者の山の中で、命懸けで、それこそ魂を削って守り抜こうとした最後の「聖域」だったのだ。

「おじいちゃん……ヨンチョルは、うどんを食べられたの?」

航は、祈るような、震える手つきでページをめくった。

戦火に焼かれるソウルを脱出し、再び釜山プサンへと逃れる長い行軍。飢え、病、そして容赦ない空爆。地獄のような「1・4後退」を生き延びた二人が、やがて反転攻勢の中で再び辿り着いたのは、かつての故郷、変わり果てた「坡州」の姿だった。

1951年春:瓦礫の坡州

日記の記述は、春の訪れと共に少しずつ落ち着きを取り戻していく。しかし、そこに記された情景は凄絶を極めていた。

> 「1951年3月。坡州。

> 私たちは戻ってきた。かつて愛したあの街へ。

> だが、そこに待っていたのは、見慣れた景色ではなかった。

> 家々は焼かれ、壁には銃弾の跡が無数に刻まれている。私の店があった場所には、ただ黒焦げた柱が数本立っているだけだった。

> 村の人々の目は虚ろで、誰もが飢えと病に怯えている。

> ヨンチョルは崩れた店の跡地に座り込み、泥だらけの手で地面を掘り返し始めた。

> 『おじいちゃん、かまがあったよ! 割れてないよ!』

> 彼は、瓦礫の中から、かつて私が使っていた大きな羽釜を掘り出したのだ。」

>

正造は、その釜を見つめて立ち尽くした。

軍服はボロボロになり、肩にはまだ小銃が食い込んでいる。しかし、その釜の鈍い輝きを見た瞬間、自分の中で何かが弾けた。

「ヨンチョル、薪を集めてこい。水もだ。泥だらけでいい、湧き水を探せ」

「うどんを作るの……?」

「ああ。約束だ。今日、ここで店を再開する」

正造は、米軍の補給部隊から「くすねてきた」わずかな小麦粉と、隠し持っていた一握りの塩を取り出した。軍服を脱ぎ捨て、泥にまみれた手で、彼は再び「麺」を打ち始めた。

1994年5月:東京

航は日記を読みながら、自然と涙が溢れていた。

瓦礫の山の中で、銃を置いた兵士がうどんを作る。

その異様な、しかし崇高な光景が、時を超えて航の目の前に浮かび上がってきた。

> 「麺を打つ音。釜から上がる白い湯気。

> それは、この1年間の戦争が、まるで悪い夢だったかのような錯覚を抱かせるほど、穏やかな音だった。

> 出汁の匂いが広がり始めると、どこからともなく、幽霊のように痩せこけた村人たちが集まってきた。

> 彼らは皆、軍人を恐れていた。だが、うどんの匂いにだけは、逆らえなかったのだ。

> 最初に食べたのはヨンチョルだった。彼は熱いうどんを啜り、ボロボロと大粒の涙をこぼした。

> 『おいしい……おいしいよ、おじいちゃん……』

> その声を聞いた時、私はようやく、山崎大尉や金少尉の亡霊から解放されたような気がした。」

>

航は、日記の最後に挟まっていた一枚の古い写真を見た。

それは、粗末な小屋の前で、一杯の椀を大切そうに持つ少年と、その肩に手を置く、精悍だが優しい目をした男の姿だった。

背景には、まだ「38度線」という深い傷跡が残っているはずなのに、二人の笑顔だけは、東京の夕焼けのように温かく輝いていた。



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