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『38度線の境界人(きょうかいじん) ―祖父が遺した朝鮮戦争の日記―』  作者: 水前寺鯉太郎


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第5話:ピョンヤンへの北進

第5話:平壌への北進

1950年10月:逆転の行進

1994年の東京。わたるがめくる日記のページは、これまでの暗く淀んだ色調から一転、高揚感と、それ以上に不気味な焦燥感を含んだ記述へと変わっていた。

1950年9月末、仁川(インチョン)上陸作戦の成功によって戦況は劇的に逆転した。ソウルを奪還した国連軍と韓国軍は、敗走する北朝鮮軍を追って、ついに「38度線」を越えたのだ。

「1950年10月1日。晴天。

我々は北へ向かっている。数ヶ月前、死に物狂いで逃げてきたこの道を、今度は追いかける側として歩いている。

沿道の民衆は太極旗を振り、我々を『解放軍』と呼んで歓呼の声を上げる。

キム少尉は灯台での傷が癒えぬまま、ジープの助手席で地図を睨んでいる。彼の顔には、ようやく祖国の統一が見えてきたという希望が、微かに宿っていた。

だが、私の胸には、あの崩れ落ちたパルミ島灯台の炎が今も消えずに残っている。」

第2中隊は、ボロボロになりながらも「英雄」として北進を続けていた。補充兵が加わり、アメリカ軍から供与された新しいM1ガーランド銃が配備された。少年兵ヨンチョルも、今では一丁前に兵士の顔つきになり、正造の隣を歩いている。

1950年10月19日:平壌ピョンヤン陥落

日記の筆致は、ついに北朝鮮の心臓部、平壌への入城を記録する。

「10月19日。平壌陥落。

街はいたる所が燃え、廃墟と化していた。

しかし、兵士たちの士気は最高潮に達している。誰もが『クリスマスまでには戦争は終わる』と口にし、故郷へ帰る準備を始めていた。

金少尉と私は、平壌の広場で冷たい風に吹かれながら立ち尽くしていた。

『正造、見てみろ。これが新しい歴史の始まりだ』。少尉は誇らしげに言った。

私はただ頷いた。だが、北の空――さらにその先、中国との国境である鴨緑江おうりょくがんの向こう側に、重く、底知れない黒い雲が立ち込めているのが見えて仕方がなかった。」

正造は、工兵としての直感で異変を感じていた。

平壌を占領したものの、敵の主力部隊があまりにも綺麗に消え去っている。それは「敗走」ではなく、獲物を誘い込む「誘引」ではないのか。

正造はかつての大陸での経験から、広大な土地が持つ「沈黙」の恐ろしさを知っていた。

1950年11月:鴨緑江(アムノッカン)の沈黙

軍は止まらなかった。マッカーサーの号令の下、彼らは中朝国境の鴨緑江を目指して進軍を続けた。気温は急激に下がり、朝鮮半島の冬が牙を剥き始めていた。

「11月20日。極寒。

水筒の水は凍り、銃の機関部も凍結して動かなくなる。

我々はついに、中国の地が見える国境付近まで到達した。

勝利は目前のはずだった。だが、夜になると山々のあちこちから、不気味な笛の音が聞こえてくる。

それは北朝鮮軍の音ではない。もっと無数、数えきれないほどの軍靴が雪を踏みしめる音が、闇の向こうから聞こえてくるのだ。」

ある夜、正造は宿営地の外で一人、凍える指先で日記を書いていた。

そこへ、金少尉がやってきた。彼は正造に、一通の封筒を差し出した。

「正造。……これは、お前の『帰国命令書』だ」

正造は目を見開いた。

「戦況は決した。マッカーサー元帥も帰還を口にしている。お前は外国人だ。もう十分すぎるほど戦った。日本へ帰る手配を済ませてある。平壌まで戻れば、そこから空路で釜山、そして日本へ渡れる」

正造は、白く光る封筒を見つめた。

それは、彼が何ヶ月も待ち望んでいたはずの「自由」への切符だった。坡州の店、うどんの匂い、平和な日本。

「少尉、あなたは……」

「俺は、最後まで行く。この国が一つになるまでな」

金少尉は寂しげに笑い、正造の肩を叩いた。

だが、その時だった。

遥か北の山並みから、夜空を切り裂くような**「喇叭らっぱ」**の音が鳴り響いた。

1950年11月25日:雪原の赤い波

「……何の音だ?」

ヨンチョルが震えながら叫んだ。

それは、数万、数十万という人間の叫び声と混じり合い、雪原を揺らした。

中国人民志願軍――「人海戦術」という名の赤い波が、凍てつく山々から溢れ出してきたのだ。

「1950年11月25日。

地獄が、本当の地獄が今始まった。

山全体が動いているかのように、白い防寒着を着た中国兵が押し寄せてくる。

我々の弾薬は尽きかけ、援軍はない。

金少尉は叫んだ。『退却だ! 南へ逃げろ!』。

私は、受け取ったばかりの帰国命令書を、火の中に投げ捨てた。

この地獄に、金少尉とヨンチョルを残して、自分だけが温かい日本へ帰ることなど、私には到底できなかった。」

1994年5月:東京

「おじいちゃん……」

航は、日記のページをめくる手が止まらなくなった。

平和な日本への帰還を目前にしながら、祖父はその権利を自ら捨てた。

誰のためでもなく、ただ「友」と共に死線を越えることを選んだ。

日記の記述は、ここから「長津湖ちょうしんこの戦い」へと続く、史上最も凄惨と言われる撤退戦へと突入していく。

極寒の雪山で、食料も尽き、追いくる中国軍の波。

その中で正造は、ある重大な「犠牲」を払うことになる。

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