第3話:山嶺(さんれい)の同胞
第3話:山嶺の同胞
1950年9月:反撃の足音
1994年の東京。航がめくる日記のページは、さらに険しく、そして救いのない戦いの記録へと移っていた。
1950年9月。連日の猛暑が嘘のように、山には冷たい雨が降り続いていた。洛東江での死闘を経て、大韓民国陸軍第2中隊はもはや中隊とは名ばかりの、消耗しきった小部隊に成り果てていた。
しかし、歴史の歯車は彼らに休息を許さない。国連軍総司令官ダグラス・マッカーサーによる乾坤一擲の反撃策、「仁川上陸作戦」が立案される中、金少尉率いる第2中隊には、作戦の成否を分ける過酷な特殊任務が下された。
それは、主力部隊の上陸を悟らせないよう、険しい太白山脈を越えて敵陣の背後へと深く潜入し、敵の補給路と通信網を撹乱する隠密行軍だった。
航は、ページの端に滲んだ泥の跡をなぞりながら、祖父の言葉を追う。
> 「1950年9月12日。雨。
> 私たちは道なき道を歩いている。道とは呼べぬ、獣さえも避けるような峻険な崖だ。
> 洛東江で無理やり徴用した少年兵たちは、今や泥と疲労で生ける幽霊のようだ。
> 少年兵ヨンチョルは、自分の体重ほどもある重い無線機を背負い、膝を震わせながら一歩一歩、必死についてきている。
> 金少尉の目は、かつての理知的な輝きを失い、今はただ『任務の完遂』という強迫観念だけを見据えている。
> この山を越えれば、仁川へと続く主要街道を見下ろせる地点に出るはずだ。だが、そこには何が待っているのか。」
>
山道は険しく、標高が上がるにつれて深い霧が立ち込め、世界は白一色の沈黙に包まれた。湿った軍靴がぐちゃりと泥を噛む音と、兵士たちの喉を焼くような荒い息遣いだけが、生者の証として響いていた。
その時だった。先頭を行くベテランの偵察兵が、凍りついたように足を止め、鋭い手信号を送った。
「伏せろ!」
金少尉の低い、地を這うような命令が響くのと同時に、前方の霧がオレンジ色の火花で弾けた。
北朝鮮軍の待ち伏せだった。
霧の中の交戦
「敵襲だ! 山側に展開しろ! 撃ち返せ!」
金少尉の叫びとともに、静寂だった山岳地帯は一瞬にして阿鼻叫喚の鉄火場と化した。
視界はわずか数メートル。霧の中から、誰が放ったかも分からぬ弾丸が飛び交い、木々の幹を削り、跳ね返った鉛が耳元で不気味な風切り音を立てる。
正造は、パニックに陥りかけたヨンチョルの首根っこを掴んで、大きな岩陰に力任せに引きずり込んだ。
「落ち着け、ヨンチョル! 頭を出すな、敵の火線をよく見ろ!」
正造は、旧式の三八式歩兵銃を構え、霧の向こうに潜む影を狙った。
北朝鮮軍の部隊は、地形を熟知しているかのように、山の斜面を巧みに利用して第2中隊を包囲しようとしていた。その配置、その射撃のタイミング……。正造は、戦場を支配する「リズム」に違和感を覚えた。
工兵として、そして一人の熟練した軍人として、正造の皮膚が不気味な予感を察知する。
「……おかしい。あの動き、どこかで見たことがある。」
それは、ソ連式の戦術教育を受けた北朝鮮軍の突撃とは、明らかに異なっていた。もっと緻密で、規律正しく、かつての大日本帝国陸軍が大陸で見せた「山岳戦の型」そのものだった。
敵の射撃ポイントの選び方、そして部隊の足並みを揃えるための、鋭い「笛」の鳴らし方。
正造の脳裏に、数年前、満州の荒野で共にした、ある部隊の記憶が鮮烈に蘇る。
衝撃の邂逅:霧の中の「日本語」
激しい銃声が山霊を震わせる合間、風が吹き抜け、霧がわずかに晴れた。
三十メートルほど先の岩影に、その男は立っていた。
北朝鮮軍の軍服を纏い、自動小銃を手にしたその男は、混乱する部下たちに背筋を伸ばした独特の姿勢で指示を飛ばしていた。
その男が放った言葉が、雷鳴のように正造の鼓膜を貫いた。
「右翼、前進! 控えろッ、焦るな!」
それは、紛れもない、濁りのない日本語だった。
「……日本人……?」
正造は心臓の鼓動が止まるかと思った。
相手もまた、こちらの尋常ではない視線を感じ取ったのか、銃を構えたまま動きを止め、霧の切れ間から正造を射抜くように見つめ返した。
霧の中に浮かび上がる男の顔は、頬に深く刻まれた古い傷跡と、すべてを諦めたような、あるいはすべてを悟ったような虚無的な瞳をしていた。
> 「1950年9月13日。
> 信じられないことが起きた。この世の終わりかと思った。
> この極限の戦場で、私は敵側に立つ『日本人』と対峙した。
> 彼は北朝鮮軍の教導官として、彼らに戦術を教えていた。
> 私と同じように、戦後、帰る場所を失い、あるいは故郷へ帰ることを良しとせず、歴史の濁流に飲み込まれた同胞。
> 我々は、異国の山中で、互いに銃を向け合う宿命を選ばされていたのだ。」
>
1994年の航は、日記を握る手が小刻みに震えるのを止められなかった。
朝鮮戦争は、朝鮮の人々だけの悲劇ではなかった。
祖父のように韓国側に立たされた者。そして、その男のように北側に立たされた者。
かつて同じ軍旗の下で戦い、同じ歌を歌ったはずの日本人が、今度は赤と青のイデオロギーに分かれ、縁もゆかりもない異国の峻険な山岳地帯で、互いの息の根を止めようとしている。
日記の余白には、その男の名前が、恨みを込めたような強い筆圧で殴り書きされていた。
『山崎大尉』。
正造がかつて大陸の工兵部隊にいた際、一時期、直属の上官だった男の名だという。
「おじいちゃん……この人と、撃ち合ったの? 本当に?」
航は、その後の凄惨な結末を知るのが怖くなり、思わず日記を閉じた。
窓の外では、夕暮れ時のカラスが、不吉な予兆のように鳴いている。
穏やかな5月の空の下で、半世紀前の「同胞殺し」の記憶が、あまりにも生々しく、鋭いナイフのように航の胸に突き刺さっていた。
1950年9月:霧の中の「声」と「選択」
再び、航は日記を開く。文字はさらに乱れ、正造の心の揺れを克明に映し出していた。
> 「1950年9月13日。霧。
> 視界は五メートルもきかない。
> 私たちは道なき道を歩き、北朝鮮軍の背後を突こうとしていた。
> だが、そこにいたのは、我々と同じように闇に潜む『プロ』の集団だった。」
>
山道で突如として始まった交戦。至近距離で飛び交う弾丸が木々を削り、兵士たちの叫び声が霧に吸い込まれていく。
正造は、泥にまみれながら三八式歩兵銃のボルトを引き、一発の弾丸を装填した。その時、霧の切れ間から、再び信じられない「音」が聞こえた。
「右翼、前進! 控えろッ、焦るな!」
その声は、かつて大陸で正造に陣地構築の基礎を叩き込んだ、あの山崎大尉の声そのものだった。
山崎。終戦直後の混乱で行方不明になった、あるいはソ連に連行されたと聞いていたが、まさか北側の「軍事教導官」として、この地獄の山中に現れるとは。
かつての同胞が、今は敵と味方に分かれ、殺し合おうとしている。
正造の指は引金にかかったまま、凍りついた。もし今、自分がこの引金を引けば、それは「日本人」を殺すことになるのか。それとも「敵兵」を殺すことになるのか。
撤退と執着:霧に消える影
山崎率いる北朝鮮の部隊は、数的には有利であったはずだが、深追いを避けるように統制の取れた動きを見せていた。彼らにとって、この小競り合いは主力部隊の移動を隠すための遅滞行動に過ぎない。
「撤収だ! 散れッ!」
山崎の最後の号令が響き、北朝鮮兵たちは霧の向こうへと吸い込まれるように、音もなく消えていく。
「待て! 行かせるか!」
正造は、反射的に岩陰から飛び出していた。
なぜ追おうとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、あの男を捕まえれば、なぜ自分たちがこんな場所にいるのか、この戦争に何の意味があるのか、その答えが聞けるような気がした。あるいは、ただ一人日本へ帰ることを夢見る自分と、この地に留まった男との「決定的な差」を確かめたかったのかもしれない。
泥を蹴り、視界ゼロの霧の中へ足を踏み入れようとしたその瞬間――。
「正造! 止まれ! 死ぬ気か!」
背後から、岩のような強い力で組み伏せられた。金少尉だった。
正造は地面に叩きつけられ、顔半分を冷たい泥の中に沈めた。
「離せ、少尉! あいつは……あいつは私の知っている男だ! 私と同じ日本人なんだ!」
「馬鹿なことを言うな! 敵の罠だ! あの霧の先には、お前を狙う機関銃陣地があるかもしれんのだぞ!」
金少尉の叫びは、喉を裂くような必死さに満ちていた。彼は正造を「日本人」としてではなく、今やこのボロボロの中隊に不可欠な「戦友」として、そして一人の「人間」として、死地へ向かうのを必死に繋ぎ止めようとしていた。
> 「私は少尉に抑え込まれたまま、霧に消えていく山崎の背中を、ただ見ていた。
> 心臓の鼓動が、自分の耳元で壊れた時計のようにうるさく響く。
> 少尉の腕の力は、震えるほどに強く、そして熱かった。
> 彼は私の命を救ったのだ。しかし、私の魂の一部は、あの霧の向こうへ消えていった山崎と一緒に、どこか遠い場所へ連れ去られたような気がした。」
>
1994年5月:東京の黄昏
日記を読み終えた航の頬を、一筋の汗が伝った。
物語の中の祖父は、ただ一人孤独に戦っていたわけではなかった。
自分を力尽くで引き止め、現実に繋ぎ止めてくれた、若き韓国人士官、金賢武。
そして、霧の向こう側で、選べなかった過去を背負って戦う日本人の上官、山崎。
「おじいちゃんは、この時に『今』を生きることを選んだんだね……」
航は日記の余白に、後年の正造が、ペン先を震わせながら書き残した一文を見つける。
> 「あの時、金少尉に止められていなかったら、私は今、この日記を書いてはいなかっただろう。
> 私は山崎を追うことで、自分が捨ててきたはずの『過去』を、あるいは『呪い』を追いかけようとしていたのだ。
> だが少尉は、泥まみれの手で私を抱きしめ、私を『今』という過酷な戦場に引き戻してくれた。
> 私は日本人である前に、彼の隣で戦う、ただの一人の男であることを選ばされたのだ。」
>
航は、窓の外の平和な景色を眺めた。
夕闇が迫る中、祖父が抱えていた「友情」と「拒絶」、そして「同胞への思慕」という複雑すぎる感情が、日記の紙面を通じて、今の自分の血の中に流れ込んでくるようだった。
日記の次のページ。そこには、いよいよ戦況を劇的に変える**「仁川上陸」**の喧騒と、その裏側で正造たちが挑む、一国の運命を懸けた「もう一つの戦い」が記されようとしていた。
航はゆっくりと、次のページをめくった。
そこには、潮の匂いと、火薬の匂いが、文字の隙間から溢れ出していた。




