表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『38度線の境界人(きょうかいじん) ―祖父が遺した朝鮮戦争の日記―』  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/11

第2話:臨津江(イムジンガン)の閃光

第2話:臨津江の閃光(承前)

1950年8月:洛東江、絶望の淵にて

日記のページをめくる航の指が止まる。

そこには、戦闘の記録よりも重く、暗い、祖父・正造の苦悩が刻まれていた。

1950年8月後半。韓国軍と国連軍は、半島の南端、釜山を中心としたわずかな一角「洛東江ナクトンガン防衛線」にまで追い詰められていた。

「8月22日。雨。

洛東江の水は、上流から流れてくる死体で濁っている。

我が第2中隊は、もはや形を成していない。昨夜の夜襲で、中隊長代理だった少尉が戦死した。

生き残ったのは、キム少尉と私、そして数人の負傷兵だけだ。

銃はある。弾薬も、アメリカ軍の支援でようやく届き始めた。

だが、それを扱う人間がいない。」

金少尉は、もはや航の知る「エリート士官」の顔をしていなかった。泥にまみれ、何日も寝ていない彼の瞳は、極限の疲労と焦燥で濁っていた。

軍本部からの命令は非情だった。――「いかなる手段を使っても、兵力を補充し、死守せよ」。

それは事実上、周辺の村々からの「強制徴用」を意味していた。

奪われる命、壊れる日常

金少尉と正造、そして銃を杖代わりにするような疲弊した兵士たちは、まだ戦火を免れていた小さな農村、慶尚道キョンサンドの山間にある集落へ向かった。

セミの声がうるさいほどに響く、のどかな昼下がりだった。だが、軍用トラックが村に入った瞬間、その平穏は悲鳴へと変わった。

「15歳から40歳までの男子は全員、広場に集まれ!」

金少尉の声が響き渡る。

正造は、トラックの荷台からその光景を眺めていた。かつて大陸で日本軍として戦っていた時、似たような光景を見たことがあった。だが今、自分はその片棒を担いでいる。日本人であることを隠し、韓国軍の「正造」として。

広場に集められたのは、土にまみれた農民たちだった。

「軍隊に行く? 冗談じゃない、今は収穫の時期だ!」

「息子だけは連れて行かないでくれ!」

母親たちが金少尉の足にすがりつき、泣き叫ぶ。しかし、少尉は冷徹だった。彼は、怯える少年たちの肩を掴み、一人ずつトラックへと押し込んでいく。

「私は見た。

金少尉が、自分にすがりつく老婆を乱暴に振り払うのを。

彼の顔は、まるで感情を失った石像のようだった。

だが、彼が徴用した少年の背中を叩くとき、その指先が激しく震えているのを私は見逃さなかった。

彼は、自分が『人殺しの片棒』を担いでいることを、誰よりも自覚していた。

それでも、この国を救うためには、誰かが悪魔にならなければならなかったのだ。」

少年兵の瞳

徴用された中に、ひときわ幼い少年がいた。名はヨンチョル。まだ16歳だという。

彼は、正造が坡州で店を営んでいた頃、時折野菜を届けてくれていた取引先の息子の面影に似ていた。

ヨンチョルは、渡された重いM1ガーランド銃を抱え、トラックの隅で震えていた。

「おじさん……僕たち、どこに行くの?」

ヨンチョルが正造に尋ねた。

正造は答えに詰まった。「南を、守りに行くんだ」と嘘をつくことさえ、喉に支えて出てこない。

「……腹は減っていないか」

正造は、自分のポケットに残っていたわずかな乾パンをヨンチョルの手に握らせた。それが、一人の日本人として、軍人として、彼にできる精一杯の償いだった。

「8月25日。

トラックに積み込まれたのは、兵士ではない。

ただの息子であり、夫であり、父親たちだ。

彼らの多くは、銃の撃ち方さえ満足に教わらないまま、洛東江の最前線へと放り込まれる。

私は、彼らの背中を見送るたびに、胸をナイフで刻まれるような痛みを感じる。

日本へ帰りたい。平和な空の下へ帰りたい。

だが、この少年たちを置いて、私一人だけが逃げることなど、もはや許されないのだ。」

1994年5月:東京

航は、日記を握る手に汗が滲んでいるのに気づいた。

祖父・正造は、ただ戦場にいただけではなかった。

祖父は、歴史が「正義」と呼ぶものの裏側で、数えきれないほどの個人の犠牲と、自らの魂の摩耗を経験していたのだ。

日記帳の端から、色褪せた一枚の小さな写真が滑り落ちた。

そこには、泥まみれの軍服を着た正造と、その横で不自然なほど大きなヘルメットを被り、ぎこちなく笑う少年兵が写っていた。写真の裏には、掠れた文字でこう書かれていた。

『ヨンチョル。洛東江にて。彼は、最後まで私のクッパを食べたいと言っていた。』

航は、庭に咲く紫陽花を見つめた。

1950年の夏、あの川のほとりで散っていった少年たちの命の上に、今の自分の平和がある。その事実が、14歳の航の心に、消えない重しとなって居座り始めた。

「おじいちゃん、次は何が起きたの……?」

航は、覚悟を決めて次のページをめくった。

そこには、絶望の淵に立たされた国連軍による、乾坤一擲の大逆転作戦――**「仁川インチョン上陸作戦」**の文字が踊っていた。

そして正造は、その陰で、ある「秘密の任務」を金少尉から託されることになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ