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『38度線の境界人(きょうかいじん) ―祖父が遺した朝鮮戦争の日記―』  作者: 水前寺鯉太郎


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第11話:金城の鉄嵐

第11話:金城クムソンの鉄嵐

1953年7月:休戦直前の狂気

1994年、東京。わたるがめくる日記の終盤、そこには「1953年7月13日」という日付が刻まれていた。

板門店での休戦協定調印が目前に迫り、誰もが「これで終わる」と信じていたその矢先、共産軍側は最後の大規模攻勢を仕掛けた。狙いは、金城クムソンに突き出した国連軍の突出部。歴史に刻まれる**「金城の戦い」**である。

「1953年7月14日。金城。

休戦の噂は、戦場を虚無感で満たしている。あと数日で終わるというのに、なぜ今日死なねばならないのか。

空は重砲の弾道で埋まり、大地は絶え間なく鳴動している。

我々は、日本への帰還船が出る釜山プサンを目指すはずだった。だが、軍は私を放さなかった。最後の最後に、私は再び火薬を背負い、地獄の真っ只中へ放り込まれた。

横には、もう逃げる気力さえ失った、土色の顔のヨンチョルがいる。」

降り注ぐ20万発の砲弾

金城の戦いは、それまでの激戦を上回る密度の砲撃戦となった。わずか数キロの戦線に、一夜にして20万発を超える砲弾が降り注いだ。

正造とヨンチョルが逃げ込んだ塹壕は、着弾のたびに激しく揺れ、崩れた土砂が生き埋めにしようと迫る。

「おじいちゃん……もう、耳が聞こえないよ」

ヨンチョルが耳を押さえてうずくまる。耳からは薄く血が滲んでいた。

正造は、ヨンチョルを抱き寄せ、防空壕の奥へと押しやった。もはや銃火器で戦う段階は過ぎていた。ただ、鉄の雨が止むのを待つしかない。

しかし、沈黙を破ったのは、土を噛み砕くようなキャタピラの音だった。

「戦車だ! 北の戦車が来るぞ!」

誰かの叫び声と共に、正造は跳ね起きた。

休戦間際、敵は一歩でも南へ戦線を押し下げるため、全戦力を投入していた。正造の目の前、夕闇の中から巨大な鋼鉄の獣が現れた。

最後の工兵任務

「ヨンチョル、そこにいろ! 動くな!」

正造は、使い古した背嚢から最後の爆薬を取り出した。

工兵としての業が、恐怖を上回る。戦車のキャタピラを止めなければ、この塹壕にいる全員が押し潰される。

正造は泥の中を這い、戦車の進路へと回り込んだ。

「1953年7月15日。未明。

私は、かつて山崎大尉に教わった『爆破の要諦』を思い出していた。

『機械には心臓がある。そこを突け』。

私は、轟音を上げるT34戦車の懐に飛び込んだ。

火花が散り、鋼鉄の匂いが鼻を突く。

私は祈るような気持ちで信管を叩いた。

金少尉、見ていてくれ。私は、この子の未来を、今ここで買い取る。」

凄まじい爆発音が響き、戦車は黒煙を上げて沈黙した。

爆風で弾き飛ばされた正造の視界が、ゆっくりと暗転していく。遠くでヨンチョルが自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。

1994年5月:東京、明かされる「名前」

「おじいちゃん……!」

航は叫びそうになり、日記を握る手に力を込めた。

ページをめくると、そこには血と泥で判別不能になった、1953年7月27日――休戦協定調印の日の記述があった。

「1953年7月28日。釜山。

私は生きている。ヨンチョルも生きている。

体中に包帯を巻き、私たちは日本へ向かう密航船の船底にいた。

私は、隣で眠る少年の顔を見つめた。

この子は、この国で家族を失い、名前さえ奪われようとしている。

日本へ渡れば、彼は『不法入国者』として追われるだろう。」

日記の最後の一節。そこには、正造が下した「最期の工作」が記されていた。

「私は、自分の懐に隠し持っていた『山崎大尉の五円硬貨』と、かつて満州で失ったはずの、私自身の本当の戸籍抄本を取り出した。

私は、ヨンチョルに言った。

『今日から、お前は私の息子だ。お前の名前は、わたるの父、○○だ。お前は、日本で死んだはずの私の家族の身代わりとして生きるんだ』。

私は、彼に『日本人』としての過去を譲り渡した。

この戦争で失われた全ての命の代わりに、私は一人の少年に、偽りの、しかし平和な未来を与えたのだ。」

航の慟哭

航は日記を閉じ、呆然と自分の手を見つめた。

自分の父が、そして自分自身が引き継いできた血筋。

それは、あの白馬高地や金城の戦いを潜り抜けた、一人の名もなき少年兵の命だったのだ。

「おじいちゃんは……ずっと、この嘘を守ってきたんだ」

窓の外では、東京の夜明けが白々と始まっていた。

50年前、正造とヨンチョルが見上げたであろう、あの白馬高地の白い朝とは違う、平穏で、何の色もついていない朝。

航は、日記の間に挟まっていた、あの古い五円硬貨を握りしめた。

それはもう、ただの硬貨ではなかった。

祖父が戦場で拾い、ヨンチョルに託し、そして自分へと繋がれた、**「平和という名のバトン」**だった。

航はゆっくりと立ち上がり、リビングの仏壇に向かった。

そこにある祖父の写真に向かって、彼は初めて、本当の感謝を込めて呟いた。

「ありがとう。……おじいちゃん。」

物語は、日記の最後の空白に、航が自分のペンで「1994年5月、継承」と書き込むことで、静かに幕を閉じた。

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