表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『38度線の境界人(きょうかいじん) ―祖父が遺した朝鮮戦争の日記―』  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/11

第10話:白馬高地(ベクマゴジ)の鉄嵐

第10話:白馬高地ベクマゴジの鉄嵐

1952年10月:鉄原チョロンの鉄の蓋

1994年の東京。わたるがめくる日記は、もはや紙の体をなしていなかった。ページ全体が火薬の煤で黒ずみ、所々が焦げ、めくるたびにパラパラと灰のような粉が落ちる。

1952年10月。朝鮮戦争は、凄惨な「丘の奪い合い」の極致に達していた。正造とヨンチョルが最後に送り込まれたのは、鉄原チョロン平野に突き出した戦略的要衝――**「白馬高地(395高地)」**だった。

> 「1952年10月6日。鉄原。

> 『断腸の稜線』を生き延びた者に、休息は与えられなかった。

> 我々が辿り着いたその丘は、米軍の砲撃と中国軍の波状攻撃によって、山の形が完全に変わっていた。

> 木々は一本も残らず、岩は粉々に砕け、白い粉塵が山を覆っている。

> その姿が白馬が横たわっているように見えることから、『白馬高地』と呼ばれている。

> だが、私に見えるのは、白い産着を着たまま息絶えた巨大な死体の姿だ。」

>

降り注ぐ鉄の雨

白馬高地を巡る戦いは、10日間で24回も支配者が入れ替わるという、朝鮮戦争史上最も激しい消耗戦の一つだった。

正造の任務は、地獄の中での「維持」だった。敵の重砲撃で一瞬にして崩壊する塹壕を、夜の間に掘り直し、地雷を埋め、鉄条網を張り巡らす。

「おじいちゃん、土を掘るのが怖い。掘るたびに、誰かの指が出てくるんだ……」

ヨンチョルの声は、もはや感情を失い、乾いた風の音のように響いた。

正造はヨンチョルの震える手を握りしめた。その手は、うどん粉を捏ねる白さではなく、死の粉塵ふんじんで真っ白に染まっていた。

> 「10月10日。総攻撃。

> 一分間に数千発の砲弾が降り注ぐ。空が鉄で埋まっている。

> 私は、米軍が撃ち込む支援砲撃の轟音の中で、自分の鼓膜が破れるのを感じた。

> 中国軍はラッパを吹き鳴らし、戦友の死体を踏み越えて波のように押し寄せてくる。

> 我々は、この小さな丘を守るために、どれだけの命を積み上げれば気が済むのか。

> 土を掘り、人を埋め、また掘り直す。もはや工兵ではない。私は死神の庭師だ。」

>

泥の中の灯火:うどんの約束

嵐のような砲撃の合間、二人は崩れかけた地下壕の隅で身を寄せ合っていた。

ヨンチョルは、キム少尉の形見である汚れきった帰国命令書の切れ端を、宝物のように握りしめていた。

「ねえ、おじいちゃん。坡州パジュで食べたあのうどん、また食べられるかな。今度は、金少尉にも食べさせてあげたかったな」

正造は、ヨンチョルの煤けた頭を撫でた。

「ああ。必ずだ。この丘を降りたら、私たちは軍服を脱ぐ。今度は本物の、誰も殺さない飯屋になるんだ。そのためだけに、今、息を吸え。死ぬ気で生きろ」

その時、地下壕の入り口に、一人の韓国軍将校が飛び込んできた。

「正造! 前方の地雷原が突破された! 予備の爆薬を持って出ろ! 敵の突撃を止めろ!」

正造は立ち上がった。腰に爆薬を巻き、ヨンチョルに背を向けた。

「ここで待ってろ、ヨンチョル。絶対に外に出るな」

1994年5月:東京

「白馬高地……」

航は、教科書に載っているその地名が、祖父の人生を決定的に引き裂いた場所であることを知った。

日記のこのページの端には、血の混じった指紋がはっきりと残っている。

> 「10月12日。白馬高地の頂上で、私は空を見た。

> 照明弾が夜空を白く焦がし、戦場は映画のスクリーンのように現実味を失っていた。

> 私は爆薬の紐を引きながら、ふと思った。

> 私は日本人だ。なぜここで死ぬ。なぜここで殺す。

> だが、背後の壕には、私を信じて待っている息子のような少年がいる。

> 私は日本のために戦っているのではない。韓国のために戦っているのではない。

> ただ、あの少年の未来を、一分一秒でも長く引き延ばすために、私はこの鉄の雨の中に身を投じるのだ。」

>

航は、日記の最後の数ページが、急激に短くなっていることに気づいた。

言葉は途絶え、ただ日付と、「生存」という二文字だけが並ぶようになる。

そして、1953年7月。休戦協定の調印。

「おじいちゃん……ヨンチョルと一緒に、帰れたんだね」

しかし、航が最後のページをめくったとき、そこには衝撃の事実が記されていた。

日記の最後に挟まれていたのは、黄色く変色した古い日本の戸籍謄本と、一通の短い手紙だった。

「……これ、おじいちゃん宛じゃない。**『ヨンチョル』**宛だ……」

航の全身に鳥肌が立った。

日記の最後の一行。それは、半世紀の間、祖父が墓場まで持っていこうとした沈黙の告白だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ