天才よ。凡人に学べ。
ある天才が死んだ。
停滞していた世界を前に進めた偉大な人だった。
彼女が世に出たのは意外にも遅い。
なにせ、名が知られ始めたのは57歳の頃だ。
72歳で亡くなったのだから、なんと世に出てから世を去るまで二十年もない。
そんな彼女だが亡くなる二年ほど前から常々口にしていた言葉がある。
「自らを天才だと思うのなら、まずは凡人から学ぶことを始めなさい」
生前の彼女は苦々しげにインタビュアーに語る。
その背後には彼女自身が書き記した数万を超えるノートがところ狭しとしまわれていた。
人々はそのノートの中身を知りたがったが、彼女は決して人々に見せることはなかった。
「私が死んだならこのノートの中を覗いてもいいわ。だけど、皆が期待するようなものは何もないけれどね」
水を一口飲む。
その動作さえもが遅い。
晩年の彼女は自らの死期を悟っていたのかもしれない。
「話を戻すわね。私は自分以上の天才なんて居ないなんて本気で思っていたし、今、この状況を見るにその考えは正しかったのだと思う」
そう口にしながら彼女は他者に決して見せないノートの内の一冊を手にとってインタビュアーに言った。
「このノートに限らず、私が書いたノートには世界を大きく変えてしまうことばかりまとめてあるの。誇らしかったわ。こんなことを思いつく私自身が――だけど」
言葉を切って彼女は皮肉げに笑う。
「本当に後悔しているわ。他者を見下していた自分をね。だから、私はかつての私と同じ過ちをしている者に伝えたいの。天才よ。凡人に学べってね」
彼女の言葉の意味は様々な意味で解釈をされた。
そして、彼女の死後。
数万ものノートは墓荒らしにあったかのように世界へ晒された。
「それは間違いなく世界を変える知識でした」
彼女の弟子の一人にして世界にノートを晒した男は苦笑する。
「事実、世界を変えています……何か知りたいですか? そうですか。では、教えましょう。その知識とは――」
男の口から世界に放たれた知識に人々は呆然とする。
その知識は誰もが知っているものだった。
なにせ、数百年も前に発見され人類を大きく前に進めた知識だったのだから――つまり、今では『常識』とされるようなもの。
「我が師は天才でした。天才であるが故に孤独でした。その孤独を認めたくないが故に孤高を気取ったのです。だからこそ世界から孤立した。そして孤立したために『常識』に触れる機会があまりにも少なかったのです」
彼女の弟子であるその男は寂しそうに告げた。
「車輪の再発明という言葉があります。既に世界で広く知られている有用な知識を『知らず』に再発明してしまうことです……お分かりですか、この数え切れないほどのノートの中身を」
男はぽつりと呟く。
「我が師は生涯の半分以上の時間を車輪の再発明に捧げました。心が折れて『凡人』である私に擦り寄るまで、自らが無駄なことをしていることに気づきもしませんでした」
類稀な知識を有しながら、誰かと共に歩むということをプライドが許さなかったが故に彼女は数え切れないほどの時間を無為にした。
『天才よ。凡人に学べ』
彼女の苦悩と後悔に満ちた言葉を凡人にも分かるように訳すとしたならこうなるだろうか。
天才よ。
凡人に学べ。
凡人は世界を前に進めることは出来ない。
だからこそ、世界を天才よりも遥かにしっかりと理解している。




