第56話
ジャリジャリと、真夜中の静けさを車輪の雄叫びが裂いていく
「はぁはぁ…ッ 」
細かい息を吐き、ただひたすらに漕ぎ続ける灯
後ろの荷台に座り、私はその汗の染み着いた背中に頬っぺたを寄せては、愛おしい熱に触れる
どれだけ、この背中にはお世話になったことだろうか
幾分か、いつもより揺れる背中が大きく感じた
学校を抜け、正門も越えていく
前にはお馴染みの小さなコンビニ、そして時期を過ぎたひまわり畑がどこか寂しげに眠っている
まったく最高だ、こんなときだけ、正門前の‘あの’変わりが遅い信号が真っ青なんだから
――いけ、いけ、いけ!!
青い風に身を任せ、鼓動が四拍子を激しく刻む
意図も簡単に、どっぷり浸かった暗闇はオレンジ色の夏で満ち溢れる
スキップのようにでこぼこに跳ねる前輪は笑い声をあげ、フードを深々と被った二人組はメロディをこぼしていく
街はあちこちに空白を作り、静まり返った道路や道幅がいつもより広く感じた
信号と蛍光灯の橙色だけが、眠った街をミステリアスに照らしている
人っ子一人いない並木道を突き抜け、左側、川沿いの遊歩道へと進路を変える
万が一も考えて、人やウィッチに気がつかれず駐車場に飛び出す為には、川沿いから行くしかないと考えた、灯なりの方法だった
二歩先も見えない闇の中に紛れて、タイヤがアスファルトを滑る音だけが鳴り響く
目の前には、灯と弱者の反撃を始めた、塗装の剥げかけたベンチが変わらず佇んでいた
次第に大きくはっきりと肉眼で捉えられるようになり
あの日のように、あの日とは真逆に
二人乗り自転車は誇らしげにベンチを通過していく
川沿いを覆う緑も河原も、今はその身を夜に溶かし、遠くの駅から僅かに届く人工色の明かりだけが世界を包んでいる
首を痛くするほど見上げると、真夜中の空はとてつもなく広かった
どこか丸みを帯びた紺色が、収まりきらず見開いた瞳を透き通らせた
真っ暗だ、でも確かに、空は見たこともないほど、こんなに綺麗に輝いていたんだ
スピードに応じて濃い草木の匂いが鼻筋を通り、夜風がコートの袖口をなびかせていく
灯の背中は熱を増し、更に前のめりに加速していく
飛躍の心地よさに身体が踊った、たまらず身体よりも先に心が進んでいった
世界中、打ち立てられたどんな最速記録よりも意味のあるスピードで駆け抜けていく
***
このまま進めば聖蹟桜ヶ丘男子高校という所
「いくぞ ゆり! 」
力強い灯のかすれ声を合図に、自転車は右に逸れ、川沿いを外れる
トンネルのような木々の小道を抜け、駅前大通りへ飛び出す
花火が打ち上がっていた夕方の面影はなく、街は深い闇に沈んでいるようだった
どこのお店もシャッターが閉まり、ただの電柱でさえ巨大な威圧感を放っていた
相変わらずジャリジャリと自転車は悲鳴をあげ
監視カメラや警戒中の警察官に見つからないよう、すっからかんの街道を縫うように切り裂いていく
やがて、前にコインパーキングが見えてくる、灯のGPSが示した場所だ
私達の戦場が、待ちわびたように闇から顔を出す
直線に駅から白い光を受けたまま、直進する
(ドクンッ……)
緊張で急に身体が硬直する
本当にいるのだろうか、間に合ったのだろうか
(ドクンッ……)
目の前に並んだ赤信号二つが、まるで怪物のような目でこちらを睨んでいる錯覚を起こす
銀色の月がニヒルな笑みを投げかけ、風も音も途絶える、街が一段と生気を無くしたときだ
何かが、……うごめいている
そして、私達は‘それ’と対峙した
私と同じカルマを身に宿した通り魔、私を街の日常から追いやった張本人
最後の夏祭りの夜
果てしない遠回りの末、私達は、ついに‘それ’を真っ向から捉えた
「……! 」
目撃した瞬間、思わず身震いがした、距離感が不安定になり、急に血が冷たくなる感覚に陥る
決して日常で見てはいけないものを真ん前で見てしまった
この世のモノとは思えない、人とは遠くかけ離れた奇っ怪で猟奇的な姿のモノ
フードを深々と被り、身に纏う真っ黒のローブコート
人斬りの為、その両手に不気味に携えられた、狂気的に月夜を反射させる魚の形をした鋭利な化け物
――‘ウィッチ’
連続通り魔が、今まさに
‘桐島逸希’に斬りかかろうとしていた
***
「突き止めたぞッ! ウィッチぃぃいッ!! 」
強い力を込めて、灯は通り魔めがけて叫んだ
ギリギリまで遅れた劣等生が、型破りな登場で反撃のステージに立つ
斬りつけようとしたウィッチが、ピクリと動作を止める
と同時に、闇討ちに遭いかけた桐島さんが慌て振り向き、状況が分からず驚いた顔をする
桐島逸希は、ウィザードで見た画像よりもずっと若く、入社したてのサラリーマンのような印象を受けた
無精髭もない、爽やかな短髪に細身の長身
とても、ウィッチとの因果を持っている者には、警察の内にいる人間には思えなかった
自転車を止め、荷台に座る私だけを降ろし、すかさず灯は携帯を取り出し耳に当てる
「……なんだよ…お前ら…」
フードから僅かに見えた、血色の悪い青白い口元から、不穏な声が漏れる
(紺野、春貴… )
男子だった、それも私達くらい世代の若い声質だ
ひよりくらいの背に、華奢な肩幅、男子にしては小柄だった
ついに、この街に潜む三つ巴の重要人物達が、闇の中で顔を合わせた
「逃げろ!桐島! 」
灯は着信中のまま、ただウィッチの後ろで棒立ちする議員を促す
ウィッチか、突如として現れたウィッチと似た姿をした二人組にか
桐島逸希は何か口ごもるような、訝しい態度を見せた後、すぐにGPS付きの車に乗り込んだ
「ふざけんなよ……」
後に残され、どこぞの馬の骨とも分からない邪魔者に、ウィッチが刃を向ける
お互いに表情は見えない、けれど、確かにそこには憎しみにした感情が飛び交っていた
「ゆり、絶対勝つんさよ 」
着信を終え、灯が自転車を駅側へ向ける
「どこにいたって、この歌だけは伝えてやるからな」
背中合わせまま、意志を込めたその言葉を私に託す
「大丈夫、行って… 灯 」
深くその言葉だけを告げ
躊躇なく自転車は私の真後ろの駅へと走っていった
残すは目の前にある私のカルマだけだ、私の対峙の順番だ
とがめる物も、妨げる人も、何もない
ねぇ、今思うと、この言葉はすごくかっこ良く感じませんか?
根暗少女、いじめられっ子、レズビアン、引きこもり
その名の皆が用意してくれた力だ
「ここらで決着をつけよう、ウィッチ 」
そして、低体温者は、闘争心を研ぎ澄ませる
(いくよ―― アマリリス!! )
その瞬間、駅前からはバチンと光が消え
後押しするように、背後から爆音が流れてきたんだ
‘BUMP OF CHICKEN’
‘カルマ’