第54話
「ぅっ…グスッ…」
深い沼の底のような暗闇に、むせび泣く死体が一体
音も途絶えた部屋の隅に、軋むほど身を縮こませ、その瞳からは止めどなく涙を滴り落としていた
血が混じったような辛い涙に鼻筋をツンとさせ、喉仏をいがらっぽく痙攣させる
手を伸ばし、辺りに転がった携帯を手探りで取り、現在時刻を確認する
「もう十二時…… 」
たった今、タイムリミットを過ぎた
今ごろ、駅前では最後の通り魔事件が実行された頃だろうか
最後まで待ち続けた希望は、漠然と過ぎていく時間という絶望に、意図も簡単に砕け散った
私のした行動など、余りに無力だった…
「…ッ…グスッ…」
悔しいような、どうしようもない何かが許せなくて
込み上げた大粒を止めようと、欠けるほど歯をきつく噛み込んだ
まぶたを痛いほどぎゅっと閉じて、立てた両膝の間に頭をうずめ、地肌に爪痕が残るほど髪をぐしゃぐしゃに右手で掴んだ
痛みで現実を誤魔化すことくらいしか、私には出来なかった
(ごめん……灯 )
ウィッチを捕まえる事、皆でライブに行く事
皆が残してくれた今日までの道しるべを、私は台無しにした
灯とすれ違ったまま、こんな結末を迎えさせてしまった
もう、終わった…何もかも全部、終わったんだ
「……グスッ…」
でも、私は馬鹿なのかな…子どもなのかな
そんな性分じゃなかったくせに
なのにどうしても、往生際悪く思っちゃうんだ
‘可能性を’
――時間です、残念です、貴女は間に合いませんでした
――だから夢は諦めて下さい
そう目の前のデジタル時計に突きつけされた
それでも、私は頑なに視線を向け続けてしまうんだ
反抗的に指を押し付けて、遮るように、受信メールのフォルダを開いてしまうんだ
……向き合う力なんてない
…どうせ一人じゃだめだろう
…場所さえ、方法さえ分からない
けど、皆と繋いできたこの夢だけは、手放せないんだ
携帯の受信メールを、すがるように九月一日から読み返す
そこには、嘘っぱち一つない二週間という期間
皆と育てた‘本物’の夢が、かさぶただらけの努力が、そのたびに負った傷痕が
それでも尚、懸命に模索し続けてきた栄冠への道筋が
最後まで諦めなかった希望が
くっきりと、鮮明に残されてた
(…ひより…有珠… 灯 )
――いやいや、だから、どうすることも出来ないって!、もう手遅れなんだって!
(手遅れ…? )
違う!、まだ遅くなんかない
私だけだって、やらなくちゃ、やり遂げなくちゃ
絶対、だめだっ!
………
まだ現場も見ていないじゃないか、結果なんて分からないじゃないか
まだ、敗北者と名乗るには早すぎる
引き際は、きっとこんな場所じゃない
真実を迎え、消えた後もちゃんと皆が積み上げて残してくれたモノを、無くしたくないと手の中が叫んでる
手の中の文字達が、進むべき道を進め!と、確かに私に投げかけている
「…行こう 」
瞳を拭い、立ち上がろうとした
―ダンッ!
(…っ!? )
――そのときだった
小さな灯火が野心を取り戻したとき‘それは’勝機を連れてやってきた
――ダンッダンッダンッ!!
(??何の…音? )
唐突に非常階段側から響いた、溢れんばかりの音
――ダンッダンッダンッ!!
車の騒音?人の声?スピーカー?
違う、それは‘何かが’沼の底に沈んだ死体めがけて、物凄いスピードで駆け上ってくる足音だった
扉一枚越しだろうと絶望の予定を粉々に吹き消す、真夜中の静寂を蹴散らす衝動音
鳴り響く足音に、はっと微かな心当たりが浮かび、思わず鼓動が早まる
(まさか…この音 )
まるで、跳び跳ねるまでに生き生きとしたリズムが、階段中を反響させ続ける
その‘何か’は消えるどころか次第に大きく近くなり、加速する
――ダンッダンッダンッ!!
そして、有り余るほどの残響を浮かべた後
それは非常扉の前でピタリと止まった
(嘘…… )
救済を告げる革命の一秒前
次の瞬間、脳裏に浮かんだ予感と共に
弾け飛ぶほどの勢いで、重い扉が叩き破られた
「ゆりぃ…ッ! 迎えにッ!!」
「――迎えに来たぞ…ッ!! 」
「――ッ!! 」
永遠を感じる瞬間、何もかものリミッターが外れて、真っ白になる瞬間
それを今、私は目撃した
目一杯、前のめりに全ての感情を乗せた地鳴りのような第一声を
腹の底から濁音びっしりに張り上げて、部室に噴出した
「…ぁ…ぁ」
思わず言葉をなくした
鼓膜が痺れる感覚に、ただただ涙が青白い頬を伝って溢れていた
私の夏が、最高の瞬間を連れて、此処に帰ってきた
どうやら私は、まだまだこの夏に別れを告げられそうにない
そこには
――‘灯’が立っていた
***
「ぁ…灯…? 」
突然の衝撃に、全身の鳥肌が止まらない
「ギリギリまで遅くなってゴメンな 」
灯は息を切らして、けれども凛とした声色で真っ直ぐ言った
「なぁ、今からやろーぜ、今からさ、ウィッチを捕まえに行こう‘ゆりっ!’ 」
「ぁ…ぁ… 」
灯の目が輝いている、こんなに瑞々しく熟した言葉を聞いたのはいつ以来だろう
私は見上げ、無意識に一筋の嬉し涙を落としていた
灯は土足のまま、コツコツと優しい足音を鳴らして、しゃがみこむ私の前に靴の先がぶつかる距離まで近づき、身を寄せた
何も口にせず、そっと腰を下ろして、そして、私の両頬をむにっとつまんだ
「わりぃ…めっちゃ待たせた 」
「グスッ…ぅん…ッ 」
冷えきった頬に、小さな痛みと熱がじんわり広がっていく
「わりぃ 」
直視するには眩しすぎるくらい、惜しみなく愛郷いっぱいにくしゃっと笑って
お世辞でも綺麗とは言えないぐちゃぐちゃの私の瞳を、吐息がかかる距離で見つめて、言った
「一緒に行こう?‘ゆり’」
これまでに見たことのない真剣な面持ちだった
「ゥッ…グスッ…ッ」
そのお返しに、ありきたりな言葉を使って
出来る限りの声と笑み、それから謝罪や感謝の全てを込めて
嗚咽まじりに、私は言った
「…ありがとう」
それからもう一度だけ、喉をツンとさせて、私は精一杯言った
「…ありがとう…ッ」