第52話
民家の脇を過ぎると、甘いカレーの匂いがした
夜中、日だまり喫茶店にたどり着く
息も出来ないくらい疲れ果てた足が店の床を踏む
「奏 いるかー? 」
擦りきれた息のまま、明かりのついた店内に問う
「………」
朝のときのように、むくりと奥から奏が顔を出す
「……大丈夫?? 」
ボソッと、第一声に怪訝そうな声で奏は聞いた
「なにがさー? 」
額に髪をぺったり張りつけて、あたしは陽気に言った
「いや…別に… 」
奏は声を逸らした
「それより届いたさー? 」
「……こくり 」
小さな頷きの後、奏は奥から新品のビニールに包まれた二着の黒い服を持って、あたしに差し出した
「ありがとうな やってくるよ 」
ビニールが形を変えるほどぎゅっと強く握り
並々まで膨れた勝機を混ぜて、あたしは噛みしめるように言った
最後の要件を済ませたところで、あたしは一息のついでにテーブル席に腰かけた
「……? 」
無表情のまま、奏は首を傾げる
「ひよりに渡す作戦内容を書いたメモだよ 」
「ねぇ…左手…」
それよりもと、奏が思わず眉をひそめた
「大丈夫、なんてことないさよ ちょっと転んだだけさぬー 」
はぐらかすようにくっしゃり笑って、あたしはごまかした
油性ペンで書いたメモを二つ折りにし、ポケットに忍ばせる
「んじゃ 行ってくるよ 奏」
「……なんで …そこまで 」
扉を開けようとした瞬間、奏が哀れむような声を放った
「朝、言ったでしょ ‘あたしの人生をかけるに値する仲間達だ’って 」
振り向いてはだめだ、なぜかそう思った
「それにさ、約束だから… ‘ウィッチを捕まえる’って」
「約束は、守らないとな 」
「………」
奏からの返答はなく、口ごもるような息だけを吐いていた
それは二三秒と続き、あたしは渋々ドアを開けようとした
そのときだった
「ボ…ボクも……」
震えた小さな声が、恐る恐る振り絞るようにして店内に漏れた
「ボクも……か…」
口から出かけた何かの葛藤を、奏は必死に床に落とした
「ボク… も… 」
「‘変われるさ’」
なんて言えばいい? そんな考えより先に、押さえきれずその言葉は飛び出していた
「……!」
ピリリと店内に放たれた不意討ちのような言葉に、奏は反応した
「そう簡単に何もかもが出来るとは思わない ブランクがある奏なら尚更」
「………」
「けど変わろうと思えたなら、すでに奏は前とは変わったってことなんだと思うな それならきっと、変われるよ」
「変わりたいだなんて思えたならさ 今夜中にだって、明日にだって変われるよ 」
「……こくり 」
表情は見えない、だけど、奏は確かに前を向いて頷いていた
だから安心して、一区切りをつけて、あたしはドアを力強く開けた
ただ最後に、今から起こりうる事を伝えておくべきだと思い、言った
「有珠なー あのちっちゃいいじめられっ子、あいつきっと、今夜中に奏をいじめてた‘いじめっ子達’倒しちゃうよ 」
「………」
奏はそれ以上の言葉を発することなく、あたしの後ろで懸命に何かを立ち上がらせようとしていた
静かに、何かを掴もうとしていた
「携帯ありがとう、助かったよ 」
もうあたしは邪魔だ、奏を見て、そう確信した
あたしは、日だまり喫茶店を出た
***
季節の匂いを傍に、喫茶店が遠くなっていく
胸の高鳴りに麻痺してか、左手の痛覚が仕事を放棄してる
雨上がりのような蒸し暑い夜が一段と深まり、行き場を無くした夏草の濃厚な匂いが、坂道にしっとり溜まっている
瞳を光らせ、濁流のように溢れかえった衝動をペダルにかけ、最後の反撃へ続く坂を駆け抜ける
全力疾走で涼風がスーッとなびき、火照った頬を冷ましていく
雑木林がざわめき、そのたびに葉が波打って揺れている
丘の斜面から見た嵐の前のような静かな街並みは、いつの間にか花火大会も終わっていた
(はぁはぁッ 急げ…ッ! )
背に広がる、しんと静かな宙は紫がかった紺色の笑みを浮かべ
沸き立つ夏虫のジーっという声、カエルの鳴き声が更に暑さと高鳴りをプラスしている
グレープフルーツジュースくらい爽やかな風を吹き起こして
街灯に照らされた土色の坂を、身を乗り出してビュンビュン下っていく
大きく息を吸い込み、肺にむせるほどの濃い香りを流し込み、口いっぱいに吐き出す
本当の勝負はこれからだ
勝率十パーセントに満たないあたし達の戦い
この数時間で街に潜むカルマと真実を暴いてやる
(この一時間が勝負だ )
***
カルマの法則とは
‘自分の成した行為は必ず自分に帰ってくるということ’
傷つけたと言う「原因」から、そのカルマを消化する為の「縁」が生じ
傷つけられるという「結果」を招き、初めてカルマは消化される
「縁」を変えて「結果」を避けたとしても「原因」が消化されない限り、何度でも「縁」が生じて「結果」を招く
「原因」と「縁」が揃ったときにもたらされるもの、それが「結果」である
そしてカルマは、蒔いた「原因」である張本人以外、対峙する事は出来ない
しかしカルマによってもたらさせる「結果」もまた
張本人が応じた善悪の「縁」を「結果」にもたらす
‘自分の成した行為は必ず自分に帰ってくるということ’
突然訪れるピンチこそ 自分が試された夢へ近づく最大のチャンスなんだ
-綾瀬 ひより-
あたしは、ひよりのカルマに立ち会った
けれどもあたしは何もしていない
所詮、一つのきっかけを提案しただけの「縁」
ただ自転車で走っただけ
難関を前に、奇跡など起こっていない
ひより自身が自力で立ち上がり、自分で対峙し、必死にあがき、頑張って得た「結果」だ
あたしは別れ際に、ひよりに今晩の‘作戦メモ’を渡した
ウィザードに、合戦の共犯を求めた
今しか見れない危ない橋を一緒に渡ってくれ、と
-桜月 有珠-
あたしは有珠に何もしていない
ただ音と楽器があっただけ
出来るなりに、いつもやっていた影の優しさをやってみただけ
爆音は鳴った、そう、鳴っただけ
でも恐らく、有珠は‘テトラゾラ’に隠された本当の意味を知らなかったんさね
‘テトラゾラ’
翻訳すると、四つのソラ
でも実は、もう一つ、意味があるんだ
‘TETRA’‘空’
TETRAを反転させ、空をくう(Qu)と読み、反対に繋げると
‘QUARTET’(カルテット)
本当はね、裏に‘四重奏’って意味を、隠しておいたんだ
ソラは離れていたって、ちゃんと四人で奏でてるんだよって
だからあたしは、その名の通り、有珠のピンチに弦を振るわせただけ
最後のsailing dayには、むしろ驚かせされちゃったけど
そして有珠は、その手で、嘘なんか一つもない「結果」を勝ち取った
いじめという「原因」のカルマを消化した
あたしは有珠に‘作戦メール’を一通送った
大嘘つきのスイミーにしか出来ない、今の有珠なら必ず成し遂げてくれる、重大な役割を託した
一度はバラバラに散った仲間が、立ちはだかる困難へ、作戦へ向けて全て繋がっていく
一人一人が逆境の戦いの中で紡いできたタスキを
今 あたしが肩にかけた
(さて… )
あたしも自分のカルマを消化してこないとな
「縁」なら溢れるほど揃った
求める「結果」は、ただひとつだ
「ゆり… 」
***
もう時間がない、十二時まであと三十分だ
こんなに気分が晴れた夜はいつ以来だろうか
真っ直ぐに全神経が吹っ切れて、研ぎ澄まされて
呼吸も視界も何もかもがニヤけるほど気持ちいい
今なら、四階から落ちたって死にそうにないぞ
自転車の車輪をなりふり構わず地面に擦り付けて
高価なアンプやコードリールも屋上に使い捨てて
あたしは最後の人物がいる場所を目指した
「はぁ…はぁ 間に合えよッ 」
背中に背負うベースが揺れて痛い
始めよう、ずっと黒板に掲げてきた最後の作戦を
「作戦名… 」
――作戦名!!
“-まぐろ剣士-”
今晩、警察に見つからず、警察より先に連続通り魔犯の正体を暴く
そのあたし達の起死回生の作戦とは
ひよりと有珠に託した作戦内容とは――
[第一]夜、ウィッチが霧島を狙う瞬間にGPS機能を使い、駐車場を特定する事
[第二]リリスを背負ったゆりをバレないよう、速やかに駅前に自転車で運び、霧島が斬られる前に阻止する事
[第三]その同時時刻に、日だまり喫茶店からウィザードによるクラックで、駅前の電気と監視カメラをダウンさせ、警察を混乱させる事
[第四]同時進行であたしがゆりの元を離れ、ダウンしたその瞬間、駅のコインロッカーに仕込んでいた爆音設定のラジカセをリモコンにより作動させ、警察を出来るだけこちらに拡散させる事
[第五]ゆりがウィッチと対峙する間
近くに警察官が来ていないか、スイミーの有珠がカメラ付きラジコンヘリコプターで上空から警戒する事
万が一ゆりに危機が迫った場合、スイミーの能力による‘足止め’を駆使して時間を稼ぐ事
[第六]一連の間、ゆりがリリスによりウィッチに‘一撃’を与える事
[第七]一人として警察に見つかることなく、駅から脱出し、日だまり喫茶店で再会する事
やって、もって二三分だろう
厳重に警備している警察官の気を出来る限り多く混乱させ
その時間内にウィッチをゆりがリリスで仕留め、正体を暴く
こんなに予定通り上手くいくとは思えない
いいんだ、最低限、ウィッチの正体を突き止めれば充分だ
皆が無事に帰ってきてくれれば、あたしの勝ちだ
これが今夜、皆でやり遂げる‘まぐろ剣士’の作戦だ
でも、今なら見えませんか?
たった四人の女子高生が
肌を寄せることも出来ない惨めな劣等生が、街を真っ暗にだってする姿を
嘘をつかなきゃ生きることも出来ない劣等生が、仲間を守り抜く姿を
死体みたいな哀れな身体の劣等生が、連続通り魔に一撃をくわえる瞬間を
街をも打ち負かしてしまえる
――不可能の先に行く姿を
***
街のルールにエンジン全開で逆らって、学校へ続く並木道を走っていく
夜が深まり、日にちが変わる時間、前を遮る人の姿はなく、あたしの進む道を導いてくれているようだ
静まり返った車道には車がまばらに走っているだけ
足が止まらない、息を切らし、吹き出した汗でブラウスが生乾きのように湿っている
「ぅっ…はぁ ッ」
学校に近づくにつれ、あたしの視界は無意識にぼやけていった
堰を切って、押さえきれず涙がどっと流れていた
まだ最後の戦いは始まっていないにも関わらず
泥のように汚れた顔を、原因不明の涙で濡らして、傷だらけの左手で拭っては、震える唇を必死に噛み込んでいた
「ぐすっ…ぅッ… 」
気がつけば、街の真ん中で込み上げた親友の名前を
胸の中でずっとずっと温めてきた名前を
こらえきれず叫んでいた
聞こえているのかもわからない
でも、どうしようもなく、無我夢中で街の中心で叫ばずにはいられなかった
真っ直ぐ早く、何もかもが詰まった子どものような涙声が
世界一大切な子の名前を、夜空に高らかと馳せていた
開いた両目に密度の濃い景色は一閃に消え、胸の中は瑞瑞しさに満ち、車輪は力強く加速を続けた
勝利を導く為に、学校までの距離をぐんぐん縮めていった
「はぁ、はぁッッ! 」
いつの間にか、楽しすぎた夏も終わろうとしていた
振り返ってみると、毎日楽しすぎて、毎日夢中で
何度もぶつかった、あっという間の夏だった
あれから、いくつの夜を越えただろう
ライブのチケットが偶然余って出会った傷仲間
嫉妬でゆりを傷つけて逃げ出してしまった夕方
ベンチで泣き笑いして本当の気持ちを伝え合えた河辺
色んな困難の末、部活を立ち上げた事
手探りの末、やっと手に入れた‘夢’が嬉しかった事
それに向かい、一つ一つ、障害を作戦という名の努力で乗り越えてきた事
それぞれに隠し持っていた痛みで傷ついた、傷つけた事
初めて、皆で一緒にお昼ご飯を食べた日の事
皆で手を繋いで帰った事
ライブを目指して、雑誌一つで笑い合えた事
出会ってきた痛みや挫折、そのたびに這いつくばって、なんとか捨てずに培ってきた希望
その延長線上、この道を進む一秒一秒が
きっとあたし達のかけがえのない最後の夏なんだ
乗り越えてみせる、必ず四人で――!!
***
(間に合ったよな? 絶対いるよな! )
学校の裏門にチャリを投げ捨てて、友を信じて裏門を飛び越える
砂混じりの風を仰ぎ、ひび割れた真夜中の冷たい非常階段を駆け上る
夢の向こうまであと少しだ!
(笑顔を、持ってきたぞ…! )
そして、四階の部室の扉に手をかける
-selling day-
あたし達を売り込む、出航の朝だ!
――いこう、あたし達が求め続けた、ゴールへ
栄光の結末へ――
…ガチャリッ
「…ゆり! 迎えに…ッ 」
「――迎えに来たぞッ!! 」