第51話
「はぁ…あぢぃー 」
喉元に唾を絡ませて、がらがら声で言う
現在あたしは、時計台の前に立つ、古い四階建てビルの前にいる
幸いにも今日は日曜日で、ビルに入っている企業の人が働いている様子は見受けられない
裏手に回り、日光に焼けた裏口の扉に手をかけると
(あいてる…?? )
鍵が、開いていた
どう侵入するか悩んでいただけに、あっさりと意図も簡単に開いた事に不安感を募らせながらも
あたしは中へ入った
潜り込み、低い姿勢で辺りを伺う、入り口のすぐ真横に階段を見つけた
(いや、階段は…さすがに無理だ )
そのまま台車を押して通過し、電気もついていない暗い廊下をこっそり進んでいると、ぽつりと、小さなエレベーターを見つけた
(誰も、いないよな )
鍵のこともあり、今このビル内に人の行き来がある可能性を考えれば、エレベーターを使うのはアウトだ、危険すぎる
(大丈夫、きっと大丈夫 )
根拠なんてなかった、足は震えていた
だけど、幾戦と戦い抜いてきた自信が、仲間と過ごしてきた日々が、汗ばんだ背中を強く強く後押ししていた
「……… 」
ゴクリと粘っこい唾を飲み、危険の連続に臆することなく、あたしは一歩を踏み出した
箱の中に他の人の姿はなく、冷暗なまでに殺気めいた空気だけが漂っていた
逃げることのできない緊迫した空間の中で、汗でしめった手のひらを握り、早く四階に着くことをだけを願った
駅のようなアナウンスや音もなく、エレベーターは無音で四階に着いた
扉がゆっくり開くと、そこは一階にも増して鬱蒼と暗い光景が広がっていた
フロアにテナントは入っておらず、床は埃とも汚れとも言えないモノで侵されていた
とても人が何かをするような場所ではない
(屋上を…探さないと )
怯むことなく、あたしは台車を押した
散策していると、どうやら屋上に通じる扉は、突き当たりの階段から通じる、通用口の扉だけのようだった
およそ十数歩ある段差には、鉄製の扉の小窓から微弱な陽光が注がれている
台車は階段の下に置いたまま、いったんあたしだけで屋上の通用口に近づいていく
(…! )
裏口も開いていたからどうかと思ったが、やっぱりだ
屋上の薄い扉にも鍵はされていなかった
…ガチャッ
ドアノブを右にひねり、勢いよく押し開く
埃臭い空間からやっと開放され、目の前には真っ青な空が眩しく輝いた
なんの変哲もない小さな屋上には自動販売機が一つだけ、もちろん人の姿などなく、他には何もない殺風景が広がっている
先にカバンとベースを野外に下ろし、日陰に置く
身体にまとわりつく汗を払い、あたしはしゃきしゃきと作業を始めた
外気を受けた階段に戻り、台車からアンプを持ち上げる
底に両手を当て、ふっと息を止め、渾身の力を振り絞り抱えあげる
優に四十キロ以上はある黒い塊を、まずは一段目に乗せる
「はぁ…はぁ 」
あまりの重量に手のひらは感覚を失い、膝が驚いてガクガクしていた
(いや、あと十回繰り返すだけだ、それで完了なんさから )
すぐ目の前の屋上への境界線を見上げ、焦げ臭さの先に広がる
あの青空を目指して――
あたしは作業を続けた
***
手は水気を失い、白いかさかさだらけになっていた
胸を押し付け、ブラウスに新しい汚れを作っては、またアンプを持ち上げる
そして、高い高い一段に下ろす
腰がやられそうだ、一歩進むにつれて痛みが全身を貫き、すでに疲労困憊の身体にその作業は拷問だった
開きっぱなしの扉からは真夏日が差し込み、たまに微風が吹き抜ける
(はぁ…はぁ はぁ)
それは、やっとあと三段で屋上というとこだった
中間を過ぎ、足元を見た、その一瞬の気の緩みが……惨事に繋がった
うっかり汗で片手を滑らせ、あたしの支えを除いて‘宙に浮いた’巨大なアンプが、崩れるようにガクンと落下しそうになった
(しま…ッ!! )
…気がついたときには、アンプだけは守ろうと、身体を張っていた
……その代わりに
――ごん……
階段には鈍い落下音が響いていた
あたしが、反動で階段の上から飛ばされていた
もうろうとした意識の中で、それに気がつくのは少し時間がかかった
(あれ……なにが… )
階段が傾いて見える、支えてたアンプがあんなに遠くに見えてる
(あれ…なんで )
左腕がじんじんする、痛いな
見ると、左腕がぐったり横たわった身体の下敷きになっていた
見るも無惨に痛々しく赤く腫れていた
(………そうか )
(あたしは )
……落ちたのか
バチンと叩きつけられた床の痛みが、徐々に顔や胸や足、全身に巡り始め、麻痺していく
視界が狭まり遠くなる
そこであたしは、一度意識を失った
***
それから意識を取り戻したのは、かなり時間が経ってからのことだった
すっかり空は茜色に染まり、駅前からは太鼓や笛の音が鳴り響いていた
ぼやけた意識の中でも、花火大会が始まっていることがはっきりとわかった
(はぁ ヤベー…ミスったさ )
不思議なことに、頭や足の痛みはそれほどなく、安心した
早くあげなくちゃ、そう気持ちを切り替えようとしたときだ
「いっ!? ぅ…痛った…! 」
思わず身体はうずくまり、ある一部分が致命傷を受けていたことを痛覚が叫んだ
‘左手首’だった
「……くそ 」
最悪だ…自分を殴りたくなった、何やらかしてんだ
「やら…ないと 」
身体をぐったり起こし、ゆっくり階段を上っていく
作業途中だったアンプに近づき、身体を必死に擦り付ける
なんとか、前へ上へ、上らせようとする
けれど……
「ぅっ…グスッ… 」
片手だけではあがるわけもなく、無力で惨めな自分の姿だけが、後ろに小さな影を作って震えていた
「皆ぁ…… 」
埃臭い段差にまたうずくまり、消えることなくズキンズキンと痛む左手首に涙を落とした
わからなかった、悔しくて情けなくて、悲しくて、申し訳なくて
「う…っ ひくっ…ぁッ 」
ただただ、涙をすすっていた
時間は刻々と進み、望んでいた未来が今にも破り去られようとしていた
「なんだよ…っ 動けよ畜生ッ! 痛みなんか…どうってことねぇだろうが…! 」
もう少し、もう少しなんだ!
あとたった数段なんだよ!
終わりたくない、終わりたくない…
皆で頑張ってきた、やっとここまできたのに……
――結局、何も変えることなんてできないのか……?
――何も変えられぬまま、終わるのか……?
限界が脳裏をよぎった そのときだ
涙で汚れた瞳を見開いた瞬間
‘何かが’視界に映った挫折を吹き消した
代わりに視界を占領したモノは
アンプでもなく、汚れた床でもなく、夕闇空などでもなく
――‘三人の友達だった’
ジャンプを楽しげに読む、ぶかぶかカーディガンを着込む根暗な女の子
お菓子を頬っぺいっぱいに頬張って、幸せそうににゃあにゃあ言う小さな銀髪の女の子
それから、いつも悩み事がありそうな顔もして、でもいつも素直な笑顔を見せてくれる
絶対に助けたい…絶対に果たしたいと思わせてくれた
大好きな、ポニーテールの女の子
「……ぐすっ 」
それはもう…いないけど、ここにはいないけどさ
今ごろ皆、自分のカルマと向き合っている、今の自分を変えようと逃げずに戦おうとしている
その中に、あたしもいる
あたしだって、変わらなくちゃダメなんだ
(変わらなくちゃ……ダメなんだぁっ! )
床に流れ落ちたものを見つめ、腐りかけの野心に呼びかける
気がつくと、そのときには、床を踏む感触さえ失った両足に力を込め、心許ない手のひらが、無言でアンプの底を押し上げていた
「はぁ…はぁ 」
足の裏にビリビリと響き、左手首の痛みが全身に張り裂けるような激痛を与えた
「はぁ…はぁ! 」
それでも、あたしは手を止めなかった
優に四十キロ以上ある塊を何度も落としかけても、何度も身体を踏みとどめて支えたんだ
ボロボロの身体を、絶対に止めなかったんだ
痛かった…、でも、恐らく本当の痛みなんてモノは、疾うに彼女達が奪ってくれたから
(この手で、夢を叶えるんだ…!)
今晩まで持てば、こんな身体は使い捨てになってもいい
それほどの強い意思だった
そしてようやく、第一段目から何時間もの戦いの末、あたしはそれを屋上の舞台へ のしあげた
***
台車を屋上へ持ってきて、アンプを乗せる
時計台側の端っこにそれを移動し、台車から下ろして作業を終える
「はぁ… はぁ… 」
崩れるように自動販売機の前に寝そべり、ほんの少しの休息をとる
外からはピーヒャラやらカンカンやら、騒がしい祭りの音が響いていた
少し立ち上がり、痛いほどに枯れた喉を癒すため、普段コンビニで買うより二十円高い三ツ矢サイダーを買う
ガコンと落ちたペットボトルを取り、だくだくと飲む
また寝そべり、何もない空を見上げると、近くて遠い夕空を濃紺色と茜色がくっきり染め分けていた
それはどこか贅沢にさえ思える景色で、あたしは無心で、吸い込まれそうになるほど見つめた
ふと足元を見ると、靴下の長さが違っていることに気がつく
(ぁ… )
いつの日か、こんなことをゆりに笑われたことを思い出した
呼吸のたびに響く左手首の痛みなど忘れ、あたしは一人笑われたようにクスクス笑った
右手にサイダーを握ったまま
目を閉じて、夜風に髪をなびかせ、夏の匂いを含んだ外気に浸った
***
すっかり街は日が暮れた
台車を持って屋上を出て、薄気味悪い階段を一階まで下り、外に出てみると
まだ花火も打ち上がってないのに、駅前はすでに夏夜の熱気に満ちていた
さっき見ていた屋台のおじさんも今は忙しそうに、熱い鉄板の上でせっせとフランクフルトを焼いていた
空にはおいしい香りをたっぷり含んだ白い煙りが立ち込めている
「…ひより 」
この人混みのどこかにいるであろう仲間の名前を呟き、あたしは残り僅かな仕事に向かった
駅ビルの中の楽器屋に台車を返した後、路地裏に止めていた自転車を引っ張り出して
また時計台前の古いビルに戻り、裏に止める
チャリの荷台にくくりつけていたコードリールを外し、右手に持つ
また四階までの階段を上り、屋上までの来た道を戻る
通用口を抜け、屋上に上がり、コードリールをアンプの後ろに置く
コードリールの延長コードをガラガラと回して伸ばしていく
そのまま自動販売機の横のコンセントに接続し、今度はアンプのコードをコードリールの内蔵コンセントに差し込む
脇にはベースを置き、カバンの中に入れていたケーブルやピックを出して確認する
「よし、大丈夫さね 」
間に合った、いつでも爆音ライブが可能な状態だ
(けど本当は こんな物は使わずに、あたしの出番なしに無事に終わることが一番いいんだけどな )
「…有珠 」
屋上の隅から見下ろして時計台へ向けて、あたしはまた無意識に仲間の名前を呟いていた
***
ビルを後にして、全ての荷物を使いきり、ほぼからっぽのカバンだけをカゴに入れ、最後の仕上げに向かう
‘ウィッチコート’を受け取るため、あたしは日だまり喫茶店へ自転車を飛ばした
片手放しで車輪を鳴らし、人の少ない裏道から駅前を抜ける
いろは坂だけは自転車から降り、左手首だけは守るように、肘で必死に押して上った
疲れきった身体にこの最後の難所は応えた
でも、どんなに痛くても、疲労感に苛まれても、ひどく汚れた姿でも
今のあたしは、生涯最高の瞬間を噛み締めていた
だってさ、あの日、ただの憧れで、理想くらいでしかなかった掲げた夢が、もうすぐそこで叶えられそうなんだ
結局最後は、なす術なく全員がカルマによってバラバラに散って、再起不能なくらい傷ついて
もう不可能なんだって…、一度は不条理な決定論をぶつけられた
あたしも一度は諦めた
最後の作戦、ウィッチを捕まえるためには、四人全員の能力が必ず欠かせなかったから
けどどうしても、残されたたった一日の希望を諦めなくなかった
だから、バラバラに散った皆のカルマを手助けする準備や、能力のピースを集結させる仕掛けや、ウィッチを捕まえる細工を、今日ずっと炎天下の下であがいてきた
その勝利方程式を辿る代償にこの程度のカルマなら、あたしにはぬるいくらいだ
なぁ…あたしのカルマよ
なんだか秒速で、今夜中にもお前を塗り潰してしまえそうなんさよ
あたしの探し求めた‘存在の証明’と‘青春論理’
あの子に頼まれたわけじゃない
ただあたしの自分勝手な、不器用な、唯一の欲だ
唯一の、誇れる小さな欲だ
‘ゆりの夢を必ず果たす’それがあたしの青春で手に入れた、欲だ
それがここまでなっても、大人、警察、ウィッチ、この街に挑み続ける
素手で他人の家の柵だってよじ登れる、あたしの存在だ
だからよ…カルマ
今日だけは、あたしに与えた痛みや苦痛を貸してくれよ
全てぶっつけだけど、この街に、勝たせてくれよ
どうしようもない落ちこぼれの四人の寄せ集め
そんな不幸なカルマからでしか得られなかった僅かな力
トラウマに近い能力を持った君たちにしか、この真実は突き止められない
代わりなんていないんだ
並外れた痛みを背負わされた人間にしか、そこまでして求める‘日常’の真価はわからない
此所が挫折をした、打ちのめされた人間にしかわからない、尚あがいたカルマの先だ
本当の終わりに必要なモノは きっともう揃ってる
ふと振りかえると、花火が聖蹟桜ヶ丘の夜空に打ち上がっているのが見えた
着々と、タイムリミットが迫っている事を知らせていた
それと同じに、二週間という痛みの物語に
前人未到のクライマックスが、もう間近に迫っているのを感じた