第50話
炎天下など吹き飛ばしてしまいそうだった
「はぁ はぁ…っ 」
滲む呼吸と錆びついたチェーンの音だけが、かんかん照りの坂に響く
あたしは日だまり喫茶店を出て、更に坂を上った
***
昼前、以前に一度だけ来た桐島の家の近くに到着する
太陽は頭上にそびえ、コンクリートの上には陽炎が浮き上がっていた
じっとしてるだけで全身から汗が噴き出てくる、そんな時間帯だ
生い茂った近くの茂みに自転車とベース、それからカバンやら手荷物を隠し、家の周辺をうろつくようにチェックし始める
(やっぱし、ここしか…ないよな )
何度も家の真ん前に付けられた監視カメラの範囲外を確認し
車が置かれた車庫に侵入する方法を考える
何べんと知恵を絞ってみても、どうやらそれには、家の脇の‘柵’からよじ登るしかなさそうだった
(……… )
身動きを止め、周囲に神経を集中する
辺りに人の歩く気配はなく、むしろ不気味なくらいに穏やか日常が広がっていた
細く連なる鉄製の黒い柵は見るからに熱く、確かめるように軽く手のひらで触れただけでもじんじんと伝わってきた
(さて…やるか )
気合いを込めた拳をぐっと握り、緊迫感を無視して意思を固める
次の瞬間、あたしは目の前の柵に助走もつけずに思いっきり飛び乗った
頑丈な柵はびくともせず、小さな効果音だけを鳴らした
全長およそ二メートル以上はあると思われる柵、その連なる間隔に片足を挟み込み
そしてがじがじと、両手両足でよじ登っていく
「はぁ…ぁっ 」
手の薄皮が剥けそうになり、鉛臭い熱に擦りながら、けれども瞳は頑として強く真上を目指し続ける
(ぅっ…くそッ )
垂直にそびえ立つ柵を丸腰の素手だけで登るというのは、思ったよりもずっときつかった…
時間が経てば経つほど、直射日光に体力を削られ、手は汗でするりと滑り、途端に疲れきった片足が外れて落ちそうになる
コツが中々掴めない、でももたついてる暇なんてない
通行人、ましてや桐島に見つかれば、もうこの瞬間で言い逃れは出来ないんだから
「はぁ…はぁ 」
こんな物理的な障害になんか負けてたまるか
(絶対止まるもんか…っ)
意地でも歯を食いしばり、引きずるように何度も手を上へ上へ伸ばしていく
数分もの時間をかけて、そんな葛藤の末、あたしはやっとのことで柵の頂上に手をかけた
「はぁ…やったぞッ 」
だくだくの汗を滴らせ、息を切らしなから
あたしは桐島に見せつけるように、とてもかっこいいという言葉とはかけ離れた姿で、思わずそんな声を漏らした
静かに敷地内に飛び降り、まずは計画通りに潜入の成功だ
***
泥棒は、こんな気持ちで人の家に不法侵入をするのだろうか?
(………)
世界が止まったように、敷地内には当たり前に日中の静けさが漂い、それが余計にあたしの恐怖心を煽った
そのまま息を潜め、忍び足で車庫の中に侵入する
途端に嫌な汗が首筋に溢れ、心臓が締め付けられるような小刻みな鼓動を打つ
今すぐにでも逃げ出したい、その薄暗い敷地に、そばでは悪魔が笑っていた
(ドクンッ……ドクンッ )
白昼堂々と、敵地のど真ん中を摺り足で進んでいく
ガレージのシャッターは半分開いたまま、中には黒色の車が一つだけ置かれていた
いかにも高そうなその車種の下にすぐさま潜り、背を地面に当てて探る
あたしが持ってきたものはガムテープと奏の携帯だけだ
(ぬー…暗くて よくわかんねー )
車体の下は暗く冷たく、どこが安全な設置場所なのかなど到底わからなかった
けれども同時に、夕方まで携帯が熱でやられる心配はなさそうだった
(むぁー きっと運転席の下なら大丈夫さよな )
半ば諦め気味に、誰かに尋ねるように、運転席付近の下のチューブの間に奏の携帯をぎゅうぎゅうに強く差し込んだ
瞬きを止め、全神経を研ぎ澄まし、ガムテープをこれでもかとぐるぐる巻きに固定し、外れないよう何回も押し込む
仮にも時速何十キロものスピードで、しかも剥き出しのまま道路を走らされることになるのだから、あたしの不注意で外れて作戦失敗でしたなど、笑い事ではすまされない
それにもし外れたら、間違いなく…壊れるんだよな
そんなことしたら、さっきの奏の恩を仇で返すようなことだ
後ろ髪に砂利がつく感覚や、湿気臭いような冷たい背中の感触など忘れ、あたしは念入りに念入りに、指先を真っ黒にして携帯を固定した
(これなら…きっと大丈夫さね )
ふぅと息を吐き、車体の下に潜っていた身体をずりずりと外に出す
見えてはいないけど、きっとブラウスの背中は擦れた汚れで泥だらけだと思った
気を配り、シャッターの隅から辺りを伺うが、外に足音や気配はなく、あたしはそそくさと侵入経路を戻っていった
(そっか、脱走…か )
あたしとしたことが、携帯の達成感のあまり、目の前にそびえる帰りの柵越えの事をすっかり忘れていた
あの黒い柵にまた手をつけ、しかし来たときよりは幾分か軽快に、あたしはよじ登っていった
指先の油臭さと、達成感に満ちたボサボサの髪が、そこにくっきりと後味をつけていた
***
監視カメラの包囲網をかい潜り、柵という障害物を破り、あたしは何事もなく、卑劣なトラップの仕込みを終えた
改めてベースを背負った小汚い少女は、荷台にコードリールを巻き付けられた自転車を雑木林から取り出す
木陰に茂った草のひんやりチクチクとしたくすぐったい感覚につい口元がほどける
なんだか手が洗われているみたいで、懐かしかった
チャリに跨がろうとした瞬間、すっかり熱くなっていたサドルにお尻が驚く
しかしそんな嬉しい理由も、また一つ見つけて
あたしは気まぐれに立ち漕ぎのまま、うねる急坂を下っていくことにした
まさに幸福のドライブだ
自転車でスキップしてる感覚だ
空を泳ぐように目の前のキャンバスには青が広がり、見下ろした街は港町のように清々しく
それでいて適度な砂利の振動が、カゴに入ったカバンの揺れと共に身体に幸せを与える
ブレーキを離し、車道に飛び出し、前を走る軽トラックを追い越していく
カントリーロードなんかを歌声に乗せて、BGMとして坂道に流れていく
遠くがいつもよりよく見え、照りつける日光に日焼けなど気にせず、両の手をピンと伸ばす
ビュンビュン加速は続き、身を任せ、銀色の風が誘うように揺れる
一仕事終えた後のぐしょ濡れの汗が冷やされて、たまらなく涼しい
そうして、あたしは坂を後にした
***
駅に戻ってきた
早朝とは違って、花火大会を夜に控えた駅前はすでに人で賑わっていた
市のトラックに撤去されなさそうな人通りの少ない小道に自転車を止め
次の準備に必要な物を揃えるため、駅ビルを目指す
行く途中、びっしりと大通りに連なった屋台が目に入った
夜の準備をするおじさん達はどこか嬉しそうに、参ったように、せっせと動いていた
それとどこか似て、年期の入った屋台の骨組みの鉄骨も眩しく反射していた
あたしは朝来たエスカレーターをもう一度上り、真っ先に仕込んだコインロッカーを通り越し、駅ビルの中に入った
寒いくらいにガンガンにきいた室内の冷房を纏い、目的地へ行く前に、脇のトイレに寄った
さっきの携帯を仕込んだときに汚れた髪をはらって整える、出来るだけ普通の女子高生を装う
背中の汚れは、半ば強引にベースのケースでごまかすこにした
トイレを出て、そのまま四階のフロアを目指した
次に作戦に必要な物
それは、出来るだけ大きい‘ベースアンプ’だった
エスカレーターを上り、この街一番の大きな楽器屋に着く
フロア全てを使った広い店内には、ピアノから管楽器
多種多様なピック、アニソンから洋楽まで豊富なスコアなど、有り余るくらいなバンド用品がところ狭しと並ぶ
そしてもちろん、ギター、ベース、ドラム、バンド必須楽器が綺麗に陳列し、飾られている
ピカピカなボディーは光を反射し、魅力的に店内を輝かせていた
あたしが買ったベースもその中の一つだ
奥には小さなスタジオが完備され、よく高校生バンドが利用している
一度でも楽器に触れたことのある人間なら、誰しもがワクワクしてしまう空間、それがここだ
(懐かしいなぁー やっぱしいいさねー )
音楽の空気に浸りながら、アンプの置かれたスペースまで歩く
小さな仕切りのような部屋の中には、ギターアンプ、ベースアンプが物置のように積まれて置かれていた
家でも使えるような可愛いミニアンプから、ライブハウスで使うような本格的な馬鹿デカイアンプまで
あたしが欲しいのは、その馬鹿デカイアンプ、学校でも使えないくらいな、巨大な音を生み出す機材だ
とはいえ、この数多くの中からどれがいいのかはさすがにあたしの目利きだけじゃわからない
「あの すいません 」
店内を歩いていたアルバイトらしき男の店員に声をかけ、すかさず本題を聞き込む
使用方法、あたしのベースの種類、弾く曲、とにかくデカイ音、など
事細かに話してみると、意外にあっさりと、あたしが今夜使うべきアンプが見つかった
それを見て、あたしは思わず二度見してしまった
「これ…ですか?? 」
この中でも特別巨大な、ずっしり身構えた一メートルくらいはありそうな黒い塊
「はい、でもさすがにですよね、もう一つ小さいのならこういうのもあるんですが 」
そう示されたアンプは、正直ボリューム不足だった
「いや、こっちください 」
音が届かなかったら意味がない
無理をしてでも、あたしは一番大きなほうのアンプに決めた
(って… 運べねーし… )
少し考えればわかったはずなのに、他の事に気を回しすぎて、この件については安易に考えすぎていた
「ぁ、あの… 」
苦笑いを浮かべ、隣にいた店員に声を漏らす
「はい?? なんでしょうか? 」
店員は目をぱちくりとさせていた
「台車…なんか、借りれたりしたりしないかなー なんて 」
思わず、言ってしまった
「ぁ …はい 」
なぜか黒い塊の前で、女子高生と店員はシュールなぎこちない苦笑いを浮かべていた
***
訳を社員に話し、なんとか借りることが出来た
その信用を裏付けたのは、紛れもない今の自分の格好だった
この場に制服を着て、ベースを背負ってきて本当に良かったと思った
巨大なアンプをレジで購入すると、その金額は高校生には恐るべき桁を示していた
しかし救ったのは、一度きり、こういう何かのときに使うときがくると貯めていた貯金があったことだった、本当に心底助かった
「じゃあ 一時間くらいですぐ返しに来るのでー 」
そうニッコリ笑って付け加え、あたしは台車に乗せられたアンプを引いて店内を後にした
***
こいつを持っていく目的地はただ一つだ
‘時計台’の前のビル、その屋上
(有珠… ホントは、ゆりより先にあたしと出会ってたんだよなぁ )
有珠のトラウマの話、そして蘇ってしまったあたしの一年前のトラウマ
それで、あたしはやっと思い出した
あの日、学校の奴に見つからないよう男装をして、駅前の時計台の前で街に叫び散らした事を
そして、それを見ていた子の事も
(有珠は絶対、あそこで戦うはずだ )
あたしは、そう確信していた
巨大な物を乗せた台車はエレベーターに乗り、駅ビルの一階へ降り、駅を出た
終始周りの人の視線が突き刺さったが、今更気にすることなんてない、あたしは必ず胸を張れることをやっているんだ
花火大会当日、昼過ぎの賑わいだした街の隅で、ベースを背負う少女は夢中になってアンプを押した
ガラガラと四つの小さな車輪は乾いた音を鳴らし、直に道路や段差の響きを手のひらに伝えた
アンプが直射日光にやられてしまう前に、早足で時計台へ向かっていく
道路も火傷しそうなくらいの熱を帯びていた
のどかな聖蹟桜ヶ丘の上には、変わらず青いキャンバスとまだらに膨れた雲が浮かんでいた
(急がないと…… )