第49話
‘この世には 勝利よりも勝ち誇るに値する敗北がある’
フランスの哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュの言った言葉だ
そしてそれは、部室の黒板にまで掲げた、あたしの大好きな言葉でもあった
モンテーニュは、更にこんな言葉も残している
‘いつかできることは、すべて今日でもできる’
今実感する、まったくその通りだと
そうだよな、今頑張れない人間が、後でなんか頑張れるわけがないんだ
それなのに…あたしはあの日、かけがえのない仲間を傷つけた
でももし、まだその言葉の通り、助けられる希望が二、三ミリでも残ってんなら、もう敗北なんていとわない
歯が折れて涙で顔がぐじゅぐじゅになろうと、決して諦めない
たぶん、がむしゃらに頑張って一つでも自分で変えられたなら、またその次も変えられる気がするから
傷つけたなら、取り戻せる
あたしの、数々の負けて得た栄光や知識を、今夜惜しみなく使いきる
時間がないんだ…、今晩で全てが終わっちゃう
けどな、こんなんじゃ終われない、絶対ウィッチになんか終わらせないよ
今さらやるだけ無駄な努力かもしれない…
だけどな、どうやってもこれだけは譲れないんさ
理屈なんかない
あたしが、あいつらのリーダーなんだから
あたしだけ綺麗なままじゃ終われないじゃん
少しくらい、あたしだって傷つかなくちゃ
(ゆり…待っててな、ごめんな )
しこたまサプライズ持ってって驚かしてやるから
泣かしちゃった分を補えるだけの要素を持ってってやるから
傷つけちゃったのは、そのあと、ちゃんと謝罪するからね
ライブ、必ず連れてってやるからな
-花火大会当日- 午前5時半-
いつも通りの朝がきた、ついにこの日がやってきた
薄暗く、まだ街も太陽も眠っている時間
あと一時間もすれば、街は夏の朝日とともに活気で溢れ、静寂が消えていく
最終日の今日もまた、何ら変わらず街は平穏に夜まで続くだろう
「…さて 」
驚くほど眠気もなく、あたしは布団から起き上がる
四畳半の部屋には、挫折をする前のあたしが揃えて残した、作戦内容と道具が散乱している
近くの中古ショップで買ったリモコン付属の二つのラジカセに、カメラ付きラジコンヘリコプター
前に有珠の作戦で一度使ったアリス服、ベースで使う事になる延長コードリール、それに無数の小道具
挫折後のあたしがそれを受け継ぎ、学生カバンに入るだけぎゅうぎゅうに押し込んでいく
支度を済ませ、適当に辺りに放り投げられていた制服とソックスを十秒とかからず着込み
充電器にささっていた携帯電話をポケットにしまう
部屋を出て、蚊に刺された首元を掻きながら
なんとなくリビングで牛乳を一杯飲む
寝起きの唾は潤い、少しの名残を残して舌に絡んだ
そしてあたしは、大がかりな荷物を抱え、玄関へ向かった
かかと部分が踏まれてへたれたローファーを履き
――始まりの朝へ、家を出た
世界一長い一日を、最後の‘弱者の反撃’を始めた
ラジカセはチャリのカゴと、荷台に紐で巻き付けて積み
学校の体育館から無断で拝借した、赤色の丸い巻取りドラム式コードリールも荷台に乗せる
延長コードは三十メートルもあり、三つのコンセントが内臓されている
コードリールはずっしり重く、自転車に乗せると車体が一瞬沈んだ気がした
そして制服姿の背中にはソフトケースにしまわれたベースも背負って
旅にでも出れそうな準備が完了する
チャリの前も後ろも笑えるくらいの積み荷でいっぱいだった
しかしその出発の前に、チャリのスタンドを倒す前に、やらなければいけないことがあった
あたしは‘奏’宛てにメールを打った
-本文-
「奏オハヨー 朝早くにゴメンなー、起こしちゃったかな?
昨日メールでお願いした物は届いたぬ??
あのさー、いきなりで悪いんさけど、今から日だまり喫茶店に来てくれないー?
もう二つ、今日大事なお願い、てか要件があるんさよー
よろしくぬーm(_ _)m 」
(…さて、行くか )
朝日が伸びてきた、車体の錆びかけた銀色が光っている
身体が軽い、満たされたような空気がそっと微笑んだ気がした
あたしは、奏からの返信を待たずに行動に移した
スタンドを蹴り、チャリに跨がった
朝もやに包まれた街を抜け、半袖じゃ少しひんやりする澄んだ空気を切り、駅へ繰り出した
血の凍るような固い心が、白く透明な風に洗い流されていくようだ
命知らずの馬鹿は、風を切って街中を走りまわる
***
早朝六時過ぎ、聖蹟桜ヶ丘駅に着いた
駅の下に自転車を止め、おうちゃくにカゴと、無理に縛って荷台に張り付けられたラジカセを外して両手に持つ
コンセントなしで野外でも使えるよう、電池は満タンに入れてある
中には、昨日百均で買った上書き可能CDに、パソコンでダウンロードした同じ曲が一曲入れてある
今夜ウィッチを倒す為の武器だ
電源はつけずにボリュームダイヤルを最大に右に回した状態にし、駅のエスカレーターに向かう
両手にラジカセ、背中にはベース、肩にはいびつな形にパンパンに膨れた学生カバン
端から見たその光景は、とても朝練に向かう高校生の姿ではなかった
見せびらかしちゃいけない、極秘に行動しなくちゃ
だけど、ここまでこれた自分の姿を、どうしても得意気に見せびらかしたくなった
長いエスカレーターを上りきり、すぐ近くのコインロッカーに近づいていく
駅構内の外れにあるコインロッカーの位置に監視カメラはなかった
日曜日の早朝、人の姿もほとんどない駅の入り口で、あたしは仕掛けを仕込ん始めた
端のロッカーの中にラジカセを入れ、扉を閉める
その状態でリモコン操作が届くかどうか確認する
どうやら、薄い壁一枚ならちゃんと反応できるようだった
もう一つのラジカセも、一つ目のと手頃な幅をおき、別のロッカーの中に入れる
まず第一の仕掛けを完了し、次に移る
辺りを警戒しつつ、今度はロングロッカーの前に立つ
縦長で‘ギター’もしまえるサイズのコインロッカーだ
そこに、カバンの中からアリス服とカメラ付きラジコンヘリコプター、それと作戦内容を書いたメモを入れておく
これで第二も完了だ
一気に手荷物が減り、ホッとした気持ちもあって、気分が嬉しくなった
外には太陽があがり始め、夜に貯まっていた冷気を蒸発させているようで
駅はプールの授業終わりのような清々しい空気で溢れていた
首から足首、瑞瑞しい風が包む中
あたしは三つそれぞれのロッカーの鍵の内、最後のロングロッカーの鍵だけを駅の下のトイレに隠した
入って右奥の個室トイレの、便器の後ろ下だ
小汚なく、駅内のトイレを利用する人が多いため、ここはあまり使われていない
少なくとも、まず今日一日で見つかることはありえない
***
トイレを出た直後、スカートのポケットが振動した
携帯がバイブでメールの受信を知らせていた
手にとって見ると、奏からだった
-本文-
「日曜日くらい…あそこに行きたくない…
眠いし…暑いし、めんどくさい
…でも、どうしてもなら、どうしてもなら
…行く… 」
相変わらずの無愛想で打ったのが目に見えてわかる文章だった
寝起きの、ため息でもつきながら書いたような文字だった
でも、やっぱりあの子なら来てくれると、絶対協力してくれるとわかってた
奏は表面上はああいう子だ
でも内面は、そういう子だ
あたしは一旦駅を離れ、止めていた自転車に乗り、奏のいる日だまり喫茶店に向かった
***
すっかり空には濃い青空が広がっていた
入道雲が浮かび、それに眩しいくらいの甘酸っぱそうな直射日光が降り注ぐ
忘れていたような夏色がくっきりと街を染めている
(晴れたなー 快晴だー )
公道を車が走り、街も日常の音で起き出していた
駅を外れ、すぐ近くのいろは坂を目指す
目の前にその入り口が迫ると、たちまち相変わらずの急坂だと痛感する
空を見上げるほど高くそびえる丘、それを巻くようにして伸びる坂と森だ
うっすらかいた首筋の汗と、もう顔を出してきた拭う暑さと
そして目の前に伸びる、鉄板のように陽を眩く反射させている急坂のコンクリートに
思わずなんともいえない息を吐く
出来るだけ一気に加速し、ガリガリともジャリジャリとも言える音を唸らせて、身を乗り出して立ち漕ぎで坂を駆け上っていく
「はぁはぁ… あぢー 」
徐々に足と肺が音を上げてくる
ついに抵抗むなしく地面に足がつき、重い車体を押していく
背負うベースの密着で背中はとっくに汗で蒸れていた
「はぁ…はぁ 」
黙々と歩く最中、ふと右に見た町並みは、今日もゆったりと時間を流していた
緑が景色を和ませ、高い青は悠々しく解放感に溢れ
その間をぽつぽつ、不規則に音が通りすぎていく
少しずつその景色は小さく遠ざかり
それと比例して、でっかく膨れた雲なんかが近づく
それを目指してみたりして、また足を前に進める
左手にひしめく雑木林がわさわさと涼しい声を放ち、まだらな木漏れ日を描いている
それに合わせて、なぜか唇が小さくにやけた
汗と、コンクリートの焼ける匂いに混じって、青々とした土や草の匂いがするのは気持ちよかった
坂もかなり上り、やっと桜ヶ丘公園に着いた
先程見えた穏やかな街は小さく、視界に余裕をもって一望できた
天空から見上げたようなその光景は爽快で
ぜえぜえ汗を流して上ってきた疲労など吹き飛ばしてしまえるほどだった
気持ちよくうーんと背を目一杯まで伸ばし、肺に入る分だけ旨い空気を吸い込む
あともう一踏ん張りと、余力たっぷりに、どこか楽しげに、また力強くチャリを押して上っていった
***
砂利だらけの木陰の小道を抜け、日だまり喫茶店に着いた
日中といえど、相変わらず坂の外れにぽつりと佇むその立ち姿は
窓越しに覗いてみても、開店以前に人のいる気配さえしてこなかった
少しの不安感を抱きながら、自転車を店の前に止め、木目の扉に手をかける
すると、鍵は開いていた、思わずほっと安心する
店内に入ると、瞬時にクーラーの冷気が身体をひんやりと包み込んだ
(ぬはー 生き返るのさー )
生ぬるい肌に吸い付く感覚、髪をしっとり冷やす感触にたまらなく癒される
「奏ー いるかー? 灯さんだぞー? いい子だから出ておいでだぞー? 」
快適な空間の中、からからに渇いた喉で言う
しーんと音もない店内の奥から、むくりと奏が顔を出す
「……なに 」
制服姿の店員が、ぶすっとした表情でこちらに歩いてきた
「おっ、いたいた よかったさー ちゃんと来てくれたんさねー 」
「…こくり 」
視線は合わせず、無表情のジト目でただ頷いた
不満や小さな疑問は、今のあたし…あたし達の状態を知ってか知らずか、ただめんどくさいのか
奏はじっと口を閉ざしていた
「今日もあぢなー、へばっちゃうさぬ 奏くん メロンソーダお願いしてもいいー? 」
「…うむ 」
注文後、すたすたと奥へ消え、二分とかからず、気配を消したまますぐにそれはやってきた
キンキンに冷えたコップの表面には水滴がつき、ビー玉のように綺麗な緑色の炭酸が細かく弾けていた
大きな氷を四つも押し込まれたメロンソーダを見ただけで、渇ききっていた喉は唾でいっぱいになった
すぐさま一気に大口でがぶ飲みする、急ぎすぎたせいか、少しだけ口の端を伝って漏れてしまった
坂道を上ってきた身体には、そのしゅわしゅわは痛いほどで、それでいて抜群に潤した
そして、蒸れる肩からベースを下ろし、イスに座り、あたしは本題を話し始める
「奏? 昨日メールでお願いしたものは届いた? 」
「…昨日の夜、注文したから…」
「やっぱり間に合わなそうかー? 」
メロンソーダを飲みほし、角張った氷をがりごり噛み砕きながら、あたしは言った
「…即日配達にしたから、今日のお昼過ぎ、遅くても夕方に届くと思うけど… 」
「そっか よかったさー 」
あたしが昨日の夜に奏にお願いしたもの
それは二人分の、ウィッチが使用していた、黒色のフード付き‘ローブコート’だった
近頃、ノリや流行りのつもりでか、コスプレ用品店ではウィッチが着ていたコートを真似て‘ウィッチコート’という名のレプリカが多数売られている
制服フェチの奏なら、特にネットショップなら、信頼性のある品と即日入手は確実だと思ったからだ
さすがに今夜、丸腰のままウィッチと対峙するわけにはいかない、場合によっては顔を見せてはいけないかもしれない
それに、万が一監視カメラにも映ったら命取りだ
だから、ウィッチが使用している物と同じに擬態すれば、特定が軽減される、その為のものだった
「奏 アリガトなー 」
「…こくり 」
奏はごく僅か、少し笑って頷いた
「あとなんだけど 呼び出したのには もう二つお願いしたいことがあるからなんさけど 」
「…?? 」
奏がぶっきらぼうに小さく首を傾げる
「あのさ… めっちゃ言いづらいんさけど 奏の‘携帯電話’貸してくれない? 」
「…? …なぜ? 」
不意に向けられた言葉に、今度は表情を濁した
「悪用とかじゃな…嫌 十分悪用か 」
「…??」
けれども、どうしてもそれは作戦に必要なものだった
「これからな あたしは桐島逸希の家に向かう 」
「……ふむ 」
「今晩、ウィッチを捕まえる為には、絶対的に桐島がウィッチに襲われる場所にあたしらがいなくちゃいけない 」
「でも残念だけど、尾行できる時間はあたしにはもうない 」
「そこでだっ、奏にしか頼めない、力を貸してくれ 」
「……つまり? 」
「桐島は今日の花火大会に必ず来る、そのとき、ほぼ間違いなく車を使って来るはずなんさ 」
「花火大会が終われば、必ず車を停めていた駐車場に向かうだろ? 」
「……まぁ」
「だったら、逆を言えば、少なからずウィッチはその駐車場から花火大会までの範囲内でしか、しかも他の人がいない場所でしか桐島と接触できないはずなんさよ 」
「……理論は、わかった 」
奏もイスに座って、真剣にあたしの話を聞く
「だからあたしは、その駐車場を特定するために、携帯に入っているアプリを使おうと思う」
「…アプリ…? 」
「‘ケータイ探せて安心サービス’」
「本来は、友達が携帯を無くしたとき、他の友達の携帯からその無くした携帯の居場所を‘GPS’を使って特定するアプリなんさけど 」
「……なるほど」
意図がわかったのか、奏はひとり納得したように頷いた
「そうっ、もうわかったさよなー そのアプリを悪用しちゃうわけだ、奏の携帯を桐島の車の下にでも貼り付ける、あとはバレなければ、GPS機能で駐車場の場所をあばく 」
「携帯…壊れるかもだし、無事に戻ってくる保証はないんさけど…やっぱしだめか? 」
正直、無謀で無責任な策だった
でもそんなのは百も承知なうえで、あたしはここに来た
「………」
奏は、すぐに口を開いた
「…別に…いいよ… 使って」
驚いたことに、奏は迷わずポケットから携帯をあたしに差し出していた
無感情の中に、確かに真っ直ぐな眼差しが宿っていた
喜びや、感謝や、目的、そういうものを含んだ真っ直ぐな瞳だ
「…奏 」
「どうせ…メールする相手もいないし もし…役に立つなら、…使って」
その黒目を見て、多分、この子もあたしらと同じ同類として、痛みを知った友達として、不器用ながらも協力したかったんだろうな、そう思った
「ありがとうなー 絶対成功させてみせるから 」
奏の携帯を確かに受け取り、大事にポケットにしまい、あたしはしゃきっと立ち上がった
ベースを背負い、扉に向かい、そして最後に言い残した
「ぁ、あともう一つのお願い 」
「?…なに? 」
奏は、あたしの飲んだコップを片付けようとしているところだった
「今日の深夜、きっとひよりがここにやってくる、そしたら、理由は聞かずに受け入れてくれ 」
「パソコンを、貸してやってくれ それがあたしからの最後のお願いだ 」
「……ひより?」
「ぁぁ、絶対…必ず、来るよ、いや…来させてみせるから 」
それは奏にではなく、むしろ自分に言った言葉だった
「………」
「ねぇ、なんで……そこまで? 」
漏れたように、奏が呟いた
「ん? なんでって?」
奏は何も言わず、ただあたしをじっと見ていた、返答を求めていた
「うーん、なんでかなぁ 理由はうまく言えないんさけど、 なんかさー あの三人だけは、…やっと出来た、かけがえのない本当の友達だから 」
「友達……」
「‘あたしの人生をかけるに値する、本当に大切な仲間達だから’」
「たぶん答えはそれさね 」
「仲間… そぅ、灯…らしいね 」
複雑な笑みを残し、奏は前向きな口調で言った
「じゃあ、また夕方取りにくるよ 」
「……こくり 」
そうして、あたしは日だまり喫茶店を後にした
もう一つ坂の上の桐島逸希の家を目指して、自転車を漕ぎ始めた
口に残しほのかなソーダの名残が、託された確かなポケットの膨らみが
あたしに揺るぎたい勇気を与えて後押しした