第40話 ゆり編
気がつくと、奏との桜ヶ丘公園を後に
いろは坂、暗い夜の道路を一人追いたてられるように走っていた
「はぁはぁ…ッ 」
はみ出すくらいの衝動に足がすくんで震えてる…
叶うはずない夢だった、口にも出来ないくらい危ない目標だった
とっても遅かったけど、たくさん迷惑もかけちゃったけど、私…本当に弱くてどうしようもないけど
やり遂げられる勇気だってまだまだ手探りだけど
だけど、この瞬間――!
また皆と一緒に頑張りたい、ちゃんとやり遂げて成功させたいって
やっと、そういう剥き出しの想いが、懸命にもう一度、自分を進むべき道へ走り出させたんだ
「はぁはぁ…ッ!」
がむしゃらにスピードが上がり、ボルテージが暴れていく、胸が熱くなって、息も苦しく脈が高鳴ってゆく
悲鳴をあげる身体の全てが、夜中の急坂を走る喜びを噛みしめていた
夏の匂いを含んだ夜風が髪をかき分けておでこに当たる
かさばる髪を激しく揺らして、形を変えてなびかせてゆく
後ろからは、青色の追い風が背中をぐいぐい押してくれていた
目一杯の音のない叫び声を街の目の前ど真ん中に轟かせたりして、身震いしそうな勢いで尚も下っていく
夏っていい、大好きだ
全身に鳥肌が立って、ローファーの磨り減る感触に喜んで、森の葉がエールを送るように揺れて気持ちいい
ギュッと固めた両手をこれでもかと振り上げていく
きっとこの瞬間、私は一生忘れられない光景を目にしているんだ
瞬きすることさえ忘れて、私はその刺激を両目に焼きつけた
「はぁ…はぁっ」
坂の中間、一閃に流れていく街の光も夜景の香りも、吹き抜ける生ぬるい空気と一緒にたっぷり吸い込む
規則的に並ぶ街灯の明かり、豆電球のように身に当たるその熱を、更に間隔を縮めようと足を前に動かし風を切る
でこぼこの急斜面に身体を任せ、まるで何かを飛び越えるようにグングン加速していく
もう無茶苦茶だった
擦りむいたっていい、怪我だってしたっていい
でも絶対に止まりたくない
止まらないで、あそこへ真っ直ぐひた走りたい!
***
「はぁ…」
いろは坂を下り終わったあたりには、足が鉛のように重く固くなっていた
心臓が破裂しそうなくらいバクバクしてる
きゅうっと肺が締め付けられて、思わず手をぐっと強く押し当てる
そうして、またぐわっとペースをあげて走り出す、両足が舞い上がる
***
線路沿いの緩やかな下り道を、つんざくスピードで駆けていく
「ぅ…はぁはぁッ 」
痛い、手をふるたびに胸をきつく締めて、足があがらなくなってきた
干からびた喉を鳴らして、更なる苦しみが私にのしかかってくる
すると、はっきり見開いた両目から、一滴だけ残った涙が、一つの結末の終わりを告げるように意識なく頬をつたって流れてきた
理由はわからなった
ただ、どうしようもなく、この胸を切り裂くような痛みが嬉しかった
震えた涙声、汗を混ぜて垂らす最後のモノに、今までの痛みや苦難が日々が頭の中をめぐった
「ぃ…はぁッ」
だってさ、だってだ
私は諦めてたんだ、もうこんな事になるはずないって
「はぁっ、はぁっ」
もうこんながむしゃらに頑張ることなんて、ないって思ってたんだ
あんな…独りぼっちの日常に戻ろうとなんてしてたんだ
「ぅぁぁッ…はぁっ」
人に見せられないくらいに顔をぐちゃぐちゃにさせて、ぎこちない両足とローファーが、また世界を蹴りつけて進んでいく
とびっきりの夏の夜空の下、びっしょりかいた汗はブラウスを透けさせて、おでこには前髪がぴったりくっついていた
来た道を戻る最中、夢の続きを進む途中
踏み切りに差し掛かった
化け物に成り果てた私が、一瞬でも死のうと足を踏み出そうとした、その赤の点滅を
足音かき鳴らすこのスピードを止めようとする、その赤の点滅を
抱えきれないほどの夢に満ちた瞳が、今度は迷うことなく
――ギリギリで飛び越えていく
来たときとは大きく変わった前向きな理由で、足を踏み出す
早くだ、もっと早く走るんだ!
両足を交互に振り上げるたびに、世界は一秒ごとに景色を変えて私の目に飛び込んでいった
歴代の昼ドラヒロインにだって負けない悲劇の主人公は、変わり続ける街並みにそっと不敵に笑う
邪魔するものなんて一つもない
並木道に飛び出して、華やく祭り色を横目に、中年の警察官二人がいた場所を、さらに加速を続けて駆け抜ける
感じたこともない風を全身にあびながら、暑い暑い身体を冷ましていく
まとわりつく汗を飛ばして、拭うように腕を振る
走る身体を自分で追い越したくて、がむしゃらに風の中を突き抜ける
カラッカラの喉が今にもしおれそうだ
足がパンパンで筋肉が縛られてるみたいだ
今にも倒れてしまいそうだ
そんな身体を、奏から貰った希望が、今までのカルマが、そして別れた仲間との日常が
後押しして、尚も私を前に前に突き動かせる
「はぁはぁはぁ …っっ! 」
ちょうちんが飾られた緑の木々を横に、通行人を掻き分けて走る
走り去る汗だくの女子高生に、イロモノな視線を向ける人も少なくなかった
それを、私はあざ笑うかのように更なる加速の材料にした
あなた達にはもう出来ないでしょ?
こんながむしゃらに街を走り抜ける非日常なんて、もうないでしょ?
私にはある、異常なまでの特異な痛みがある、絶望的な明日への夢がある、散った仲間がいる、狂った事件の中心にいる
すごいでしょ?
こんなに困難な現在地なのに
心なしか、その全てをひっくり返してもお釣りがきそうな自信や喜びや衝動に満ちているんだ
―――たまらなく、嬉しいんだ!
………
……
***
「…ふぅ、…はぁ」
そうして、私はようやく目的地へたどり着いた
‘聖蹟桜ヶ丘女子高等学校’
明かりも消え、鬱蒼と高く待ち構えた私達の学校
こんな距離を、しかも全力疾走で走ったこともなかった私は、止まった瞬間、思わず荒い息に膝をかかえた
見ると、両足が棒っきれみたいに頼りなく震えてがくがくしていた
肺が誰かに強く握りしめられてるみたいに痛かった
渇ききった喉はネバネバ変な味がして、今にも何か吐き出してしまいそうだった
なりふり構わず走っていたときには分からなかった身体の疲労を、不思議にもこのとき初めて実感したんだ
真っ暗な学校の前でほんの少しだけ休む、と同時に、ポケットに入れていた携帯で時間を確認する
-8時43分-
とっくに最終下校時間は過ぎている時間だった
当たり前に、目の前の正門も頑丈に高く閉ざされている
(…負けないよ )
こんなことじゃくじけない
もう逃げない
息づかいを荒くしたまま、顔をあげる、学校の裏へと回る
(裏門なら )
広い学校の裏手には街灯もなく、まるで古びた屋敷への道のりのようだった
日中には想像もできないそんな静かで不気味な道を、携帯のカメラ機能のライトだけを使ってなんとか進む
闇の中、微かな光に映し出されたコンクリートの高い塀には、汚れとも落書きともつかない模様が入っていた
そして、車一台も通れなさそうな、年期の入った裏門にたどり着く
もう使われているのかも分からない、一応存在するだけのその校門は、私の身長よりももちろん高く、黒い鉄製の棒状の柵が幾つも列なって出来ていた
所々が剥げていて、夏の日差しにやられたのか、臭いはわからずとも、掴んだ手の平に気持ち悪い感触を覚えた
携帯をポケットにしまい、学生カバンをリュックのように背負う
正門みたいに高々と立派ではないけれど、平均以下の私の身長では簡単に侵入できそうにもなかった
とにかく、私は泥棒のように行動に移した
細長い柵を両手で掴み、その棒状の柵と柵との間にちょうど足が挟み込めた
そのまま身体をグイッと浮かしてみると、思いのほか頼りない柵はフィットし、足を固定してくれていた
そのまま更に身体を上へ伸ばす、ブラウスがスカートからはみ出たり、錆のようなものが制服に擦れるのもお構い無し
ただ上へ上へ、子供の木登りのように、がむしゃらにしがみついていた
さすがにずりずりと足が挟まれているだけの重心はきつくて、何度も角度を変えたりする
ガシャンガシャンと闇の中で門が激しく揺れる音が響く
そんなふうに格闘して、ようやく門の上に右手をかけた
ズタボロに疲れきった重い身体を、力を振り絞って持ち上げる
男の子のように足をあげてよじ登り、スカートが捲れてしまう
門のてっぺんに上り、そのまま学校側の地へ飛び降りる
柔らかい土の感触になぜか安心した
見上げると、明かりの消えた学校が廃墟のように反り立っていた
その瞬間、一気に緊張や恐怖に変化した
(…… )
今立っている此処は、私のよく知っている場所だった
毎日上から見下ろしていた場所
ちょうど私達の部室の真下に今私は立っていた
すると、目の前にヒビの入ったむき出しのコンクリート階段を見つける
馴染み深い見覚えのある階段
そう、それはまさに、使用目的の失われた最上階に通じる‘非常階段’だった
侵入経路を探す手間が省け、迷うことなく近づく
音を立てぬよう、なかば忍び足で上っていく
相変わらず、足元を照らす明かりは携帯のライト機能だけで、真っ暗な階段に白い人影がぼんやり浮かぶ
階段を上る自分の足音に恐怖感をあおられる、誰もいない学校はそれだけで肝試しみたいだった
一階から上り、徐々に夜空と街並みが色濃く近づいていく
(はぁ…っ、やっと着いた )
奏との公園を後にして、走り抜け、門をよじ登り、長い長い階段を上りきり
私はとうとう四階、部室の前に着いた
全てを失った私の目的地へ、戻ってきたんだ
(殺しに…きたよ )
希望を殺した私を殺しに、来た
***
-軽音学部 部室-
冷たく分厚い非常階段の扉に手をかける
古びた重い扉が反応する
(思った通り )
…キィと淋しげな音を鳴らしながら、その頑丈な扉が開かれる
普段部室の扉は鍵がかかっている、けれどもこちら側の鍵はいつも誰も閉めてはいなかった
「……灯 」
見渡すと、手付かずのまま、部室はあのままの状態で残っていた
冷たく重い空間、殺人現場みたいだった…
ミニひまわりが四つ、作戦が書かれた黒板
机に置かれた灯のヘッドホン
そして――
最後に灯からさずけられた、床に転がった私の希望
‘ギターケース’
「…やろう 」
私はこれを取りに来たんだ
明日がどうなるか分からない、明日どうすればいいのか分からない
仲直りの方法だって分からない
だけど、私が今出来る事は、きっとこれだから
私がこんなふうに行動してるなら、きっと灯だって諦めてない
私は、灯を信じてる
だから、私も灯にさずけられた作戦をやり遂げる
明日の朝、この灯お手製ソフトギターケースにリリスを詰め込んで、此処で灯を待つ
大丈夫…、きっと来てくれる
黒板に書かれた、明日の作戦内容を深く心に刻む
作戦名:〇〇〇〇〇
(ウィッチ…やってみせるよ )
月明かりにうっすらと照らされた敗者の部室、散々とした暗闇の中心、そこに立つ一人は静かな呼吸だけの音で決意する
途方も無い傷を与えられた私達の試された戦争へ
ウィッチに、街に、挑戦状を叩きつけるように、私は灯から託された最後の希望を肩にかける
そして、私の長く苦しかった一日はようやく終わりを告げた
***
中身のないギターケースを背負って、少女は夜中の学校を後にした
ちゃんと一人で家にも帰れた
少ないながらに夜ご飯も食べれた
腕を自虐的に斬りつけることもなかった
今日一日分の私の出来事を表した しおれた髪や汚れた身体も、綺麗に洗って流した
緊張や不安や期待や恐怖をベットの中でめぐらせながら
また少し震えて怯えて、でも、本当に久しぶりに
私はちゃんと眠りにつくことができた