第38話
7時前、街が夜に色を変え、降り続いていた雨もあがった
澄みきった雨上がりの夜空には、綺麗な銀色の月が浮かび上がっていた
明日はたぶん晴れだろう
そんな景色の片隅に独りぼっち、抜け殻のような高校生がいた
…わからない
気がつけば私は学校を出て、さ迷うようにしてある場所へ向かっていた
突き抜けるような痛みを抱えて、今にもまたうずくまりそうになりながら、駅まで続く並木道に足を進ませていた
道端の隅に落ちていたポテトチップスの袋を見てなぜか悲しくなって
遠くの遠くに見える電柱の先っぽに寂しさを覚えたりして
綺麗な濃紺色に彩られた空を見上げて、心の芯が抜けるような気持ちになったりもした
無力感でたまらない、やっと涙は止んだのに、家には未だ帰れない自分がいた
もしこのまま誰もいないあの家に帰ったら、今度は本当にリリスで自分の身を切り刻むかもしれないから
こんな死体を、今度こそ本当に殺してしまいそうだったから
***
もの静かでどこか賑やかで、私が失望したところでなんの支障もない聖蹟桜ヶ丘
明日の花火大会を控えて、駅前は準備や警備や人だかりや綺麗な色と声に満ちていた
遅い夏の最後のイベントを、今か今かとワクワクした気持ちで誰もが待っているようだった
並木道の両脇にそびえる木々達も、少し古びた大きなちょうちんをぶら下げている
まだ光を点されていないそれを見ただけでも、懐かしい夏の匂いがしてきそうだった
私には場違いすぎるそんな道を怯えるように歩いていると、目の前に少し太った中年の警察官二人が立って話しをしていた
花火の警備なのだろうか、ウィッチの警備なのだろうか
私は一人俯いておろおろとした
そんなときだった、片方の警察官と一瞬視線が合う
遠い目をした女子高生に首をかしげるように警察官が話しているのが見えると、不意に自分の事を話しているんじゃないかと過剰に不安になった
(………)
あの人達に洗いざらい話したら、触れたら、この胸の真空や冷たい肌は終わるのだろうか?
…無理だろうな
***
夏色の楽しげな駅前の手前で、並木道から小道へそれる
九月後半の今夜も、まだ制服が半袖で大丈夫なくらいな気温
絡みつく生ぬるい夜風は、憎く孤独感へと変わる
ほの暗くて鬱蒼とした小道の中心でローファーの足音を止める
今の私には、この空気がどうしようもなく落ち着く
何度目かも分からないパトカーのサイレンの音が、刺々しく泣きじゃくるように表街道のほうから聞こえてくる
情緒不安定に立ち止まり、灯がにっこり好きだと言ってくれたポニーテールの髪を、片手でほどく
乱れた長い髪がわさっとしたたり落ち、だらしなく瞳に重なる
色んな意味があった、でもこれと言って意味はなかった
ただひどい泣きっ面を隠すように、ぐしゃぐしゃのチョコレート色の髪をおろして私は尚も歩いた
猫背、ずり足、半開きの唇、真っ黒で虚ろな瞳、惨めにくっきりと頬っぺたに残された涙の跡、体温と呼ぶことすら怪しい身体、人と呼ぶことすら怪しい姿
化け物と呼ばれても否定できそうにもなかった
それから私は歩いた
カンカン鳴り響く踏み切りに、暗闇に点滅する赤を見て、一瞬でも足を前に出そうともした
また歩いて歩いて、いろは坂を上った、街並みが綺麗だと思った
垂れ下がった前髪と枯れそうな視界のせいでよくは見えなかったけど
泥道でボコボコの脇道をふらつく足どりで進んだ
不意に左足をくじきそうになった、思わず目を見開いて体勢を立て直す
その一瞬だけは、灯を忘れられた
脇道を抜け、空間に出る
そしてたどり着いく
どこより静かで、満点の夜空が流れる場所
‘日だまり喫茶店’
(………)
本当に誰かと一緒にいるだけでよかった
たった少し話して…このボロボロの身体を慰めてほしかった
もうあそこにはいられないから、資格もないから
小さな喫茶店はこんな場所だろうとも、いつものように店内から温かい明かりを滲ませている
重い木目の扉が開くと、すぐさま明るい温もりが身体にしっとり染み込んできた
優しくて優しくて、こじんまりとした店内の懐かしいような木の匂いが鼻に伝わってくる
髪をだらんと垂らしたまま、ぼーっと顔をあげて此処の空気を吸い込んだ
すると、こつこつと、どこか悲しい足音がカウンターの奥から近寄ってきた
「……また…来たの?」
この狭い世界の唯一の住人が顔を覗かせた
「…ごめん」
「…?? 」
化け物に成り果てた自分の姿を見て、奏は驚いている様子だった
「ごめんね、こんな晩くに、いきなり迷惑だったよね…」
「…うに…」
困惑しながら、奏は正直に頷いた
店内を見渡せば、奏が帰り支度をしているようだった
もう夜だ、考えれば当たり前だ
「…帰ったほうが、いいよね 」
また友達に迷惑をかける
すぐ前のそのトラウマに、最後にたどり着いた此処さえも消されそうになる
足を後ろに退こうと、背を向けて扉に手をかけようとした
そのときだった
「……いいよ…いて 」
ふと、奏が呟いた
相変わらず視線は合わせず、声に感情や強弱もなしに、ポツリと言ってくれた
「…今日は…駅前混んでるから、夜の街…出かけない、もう少しなら…いい 」
「でも迷惑だよね、もう夜だから、奏の場合はお家も」
「ボクの家は夜ご飯遅いから…八時までなら…いい」
優しかった、不器用だけど、何もかも足りなったけど
たまらなく優しかった
「…ありがとう、ごめん 」
***
ふらふらになりながら、衰弱しきった私はたった一つのテーブル席に腰かけた
「その姿…どうしたの…?」
ロボットのように首をこくりと横にかしげる
「…ちょっと、あって」
「…そう…」
奏は探りを入れるわけでもなく、相談相手に志願するわけでもなく、ただ同じ空間にいてくれた
それが今の私には何よりも安心感をもたらした
私はイスに深く座り、またぼーっと橙色の明かりを見つめていた
焦点が定まらないけれど、なんだかこのままスッと消えていけそうな気持ちになれた
今日の奏の制服姿は、私達と同じ女子高のものではなかった
白ブラウスと紺色ソックスは変わらず
上に柔らかいグレーのベストを羽織り
チェック柄のプリーツスカートは控えめな濃緑色を基調に、深いネイビーの紺色とを織りなった柄色をしていた
そして相変わらずそれを膝下の長さで身につけている
自称制服フェチの奏は、いつも私服のようにあの秘密の小部屋の中から制服を選んでいるのだろうか
「……何か、飲む…?」
黙って座る私のテーブル席の横に立ち、仏頂面の奏が言う
店員ではなく、紛れもない友達として聞いてくれていた
「…じゃあ 紅茶 お願いしてもいい? 」
今の私には、こんなセリフすらも迷惑の罪悪感を感じた
「…うに…」
奏が頷きカウンターの奥に消えていく
カウンターの上には、いつものように画材や缶スプレーが置かれている
そしてその横には、半分食べかけられたお弁当が置かれていた
きんぴらごぼう、ハムカツ、マカロニサラダ、焼き鮭
ごくごく普通で、学校へ行く娘に愛情を込めた、そんなモノが敷き詰められた小さな箱だった
きっと、裏切るようにして喉を冷たくして食べかけられたモノだった
(………)
奥からお湯が沸ける音がして、少し経って奏がテーブルに気配もなく歩いてくる
「……紅茶 」
「ありがとう、ごめん 」
また何回目のごめんだろう、本当にだめだな…私
紅茶が淹れられたマグカップがカツと音を鳴らしてテーブルに置かれる
クリーム色のつるんとした輪郭が特徴的な丸いマグカップ
表には、なぜか顔文字のショボーンが黒い文字で可愛く描かれていた
「…可愛いね、これ」
「…こくり…」
今の私に対しての皮肉ではなかった、言葉も仕草もコミュニケーションも不器用な奏なりの、精一杯の元気をもたらそうとしている行動だった
「それ…ボクのお気に入り…」
ショボーンのマグカップを小さく指して言う
「うん、…ありがとう」
「………」
奏の優しさに大した返しも出来ないまま、私はまた暗い世界に身を潜めた
はぐらかすように、熱い紅茶を一口すする
ほんのり甘くて、泣きじゃくって枯れた喉を潤す
微かに湯気が立ち上り、濃いオレンジ色に自分の顔が映る
(………)
迷っていた、奏に言おうか言わないか
今までのトラウマや痛みや、恐怖や不安が何度も反響していた、怖くて壊れそうになりながら、頭の中をぐるぐる巡って貫いていた
ビクビクしながら、奥歯を強く噛んで、唇を震わせて、振り絞って
そして、私は口を開いた
「ねぇ、奏 もし奏にすごく仲のいい友達がいたとして、その子と修復不能なくらい離ればなれになっちゃったら、…どうする? 」
私はいきなりそんな事を言い出した
もちろん誰の事を言っているのかは一目瞭然だった
ただ言える範囲で、ぼかしながら、これ以上傷つかないように第三者目線でそれを口にしたかった
「………」
すぐそばで立っていた奏が怪訝そうな表情に変わる
長い長い沈黙、早く何か言ってほしかった
空気が虚しく冷えきった気がした
すると、次だった
奏は、私の予想をあっさりと裏切っていった
黙ったまま何も言わず、こつこつと足音を鳴らして、私を無視するように奏は奥のほうに消えていったんだ…
「ぁ… 」
その瞬間、ほんのちょっぴり望んだ私の期待は、ブチッと引きちぎられた
(………)
それから、結局 奏は帰ってこなかった
***
わかってた…ひどく後悔した
そうだよね、こんなめんどくさい事、たとえ奏だって困るんだよね
わがままだよね、自己中だよね、ウザイよね
やっぱり、言わなければよかった、なんで言ったのかな
少しでも救ってもらえるとでも?、慰めてもらえるとでも?
…馬鹿じゃないの
どうせお前は独りぼっちなのに、無理だよ
無理だよ…
***
最後の友達がカウンターの奥に消えて数分が経った
紅茶もすっかり冷めていた
何百キロより遠い遠いその向こうから、足音が鳴ってくる気配はない
すると、思いもよらず、生地が焼ける甘い匂いが漂ってきた
それはまるで…もう私がここにいないみたいに
奏が無言で私に帰れと言っているように思えた
(そうだよね、もう奏だってお家に帰りたいんだよね、邪魔…なんだよね )
イスに縮こまり、ヒビが入った胸を隠して、心がまた崩れそうになって、さらに深く俯き髪で隠した
店内の色が灰色に変わり、自分の存在が消えたように、虚しい孤独が私を捕える
もう…涙だって出ない
カバンから財布を取り出して、ひっそりと紅茶の代金をテーブルの上におく
いっそう痛みを深くして、残った深いオレンジ色の罪悪感の塊を飲み込んだ
(もう嫌だ…こんなのは嫌だ )
私は立って、ボサボサの髪をだらんとしたたらせて、扉へ歩こうとした
完結へ向かおうとした
(ごめんね…ごめんなさい)
――そのときだった
「‘いこう’ 」
(ッ!?)
――いきなりだった
「…いこう…‘ゆり’」
いきなり、訳もわからず背後から声がした
慌ててバッと振り返ると
(…ぇ)
奏がカウンターの奥から飛び出していた
その両手はこの時間の正体で溢れていた
右手には、おとぎ話に出てきそうな丸く可愛らしい麦色のバスケットをかけている
何か入っているのか、上から白い布を被せてある
左手には、モスグリーン色の小さな魔法瓶の水筒を、同じ色の水筒入れに閉まって握りしめていた
まるで今からピクニックにでも行くような格好だった
「ぁ……」
私は呆気にとられた
今の今まで、私を置き去りにしてこの子は何をしていたのか?
嫌気がさしたんじゃ、帰れと思っていたんじゃ
「…一緒に行く、公園…いく…っ」
奏はいつもより大きな声で目一杯に言った、その引きこもりの姿が弱りきった私の心に強く響いた
「まさか、その用意をずっとして 」
「…こくりっ」
自信たっぷりの頷きだった
驚いた反面、私はそこで理解した
私が悲しみを奏に打ち明けたとき、奏は言葉を述べる前に真っ先に奥へ向かった
そうして、両手をうめるこれだけの支度をして私を誘っている
これにどういう意図があるのかは分からない
でもそうなんだ、きっと前にアップルパイをご馳走してくれたように
これが不器用で引きこもりの奏なりの優しさだったんだ
無視なんかじゃなくて、嫌気なんかじゃなくて、誰も裏切ったわけじゃなくて
奏なりに私を元気にさせたくて、化け物がやっとのことで痛みを漏らした瞬間、真っ先に考えたなりに頑張った方法だったんだ
「公園…いこう」
(やっぱり、だめだな…私)
再度誘われて、私は本当に久しぶりに小さく微笑んだ
そして答えた
「うん」
ただ一回、ただその一言
この世で一番意味のある頷きをした