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第35話

街の温度が幾分下がり、徐々に夜が増していく


奏に呼ばれ、日だまり喫茶店へ向かって歩く並木道

木々の間からは明るい月が顔を覗かせていた


ふと前から、自転車で帰宅中の制服姿の男子が走ってくる

イヤホンを両耳にして、風に揺られる前髪を気にして、指でいじりながら私の横を通り過ぎていく


赤と黒を背負ったふたりの小学生が、どうしてそんなに急ぐのかと言うまでに人を抜いて走っていく


通り過ぎた赤黒とは打って変わって、地味な髪型のサラリーマンが擦り減った靴底を鳴らしてどこかへ帰っていく


その帰宅の合間にも、ピリピリと張り詰めたパトカーのサイレンが、平然と街を巡回しては雑踏の音を掻き消してゆく


変わらない日常、変わらない町並み

その中で変わった一日


渇き切った不公平でろくでもない世界を舞台に

どこかでどこかに痛みを背負った同じ者が、今日もどこかへ帰っていく


私だけじゃない、この中すべてが少なからず私と似たような悩みや苦しみを抱えて、今日を終えて、そして帰っているんだ


だからなのかな、そう思うと不意に少しだけ、本当に少しだけ心が軽くなった気がした


(………)

有珠は、今どこで何を思っているのだろうか

こんなことも思えないくらい俯いて泣いて、自分を責めているのだろうか


灯が必死に頑張っている駅前を避け、脇道にそれ、線路沿いを歩く


また、いろは坂を上る

そのときには、空にはすっかり夜空が広がっていた


長い長い急斜面を上り、街を見下ろす

桜公園を通りすぎ、正規ルートの道を外れて、前に迷い込んだ裏路地の小道へ進む

木々の茂みに阻まれたほの暗い泥んこ道


そこを抜けると


――小さな喫茶店が現れる


柔らかい橙色を放つそこを見て、また少し心が軽くなる


ぽっかりと空間の出来た雑木林の中心へ、ボコボコの土を踏んで歩む

コンッと軽い音のノックを一回して、茶色い木目の扉を開ける


「おじゃまします 」

相変わらず、狭くて静かで、それでいて落ち着いた雰囲気のする喫茶店だった


のっそり、カウンターの向こうから誰かが顔を出す

仏頂面に不機嫌そうな、こちらも相変わらずの店員さんだった


「……なに…」

同じ制服姿のジト目少女がボソッと呟く


「いや、この変なメール、奏が送ってきたんだよね?、ゴキブリがどうとか 」

ポケットから携帯を取り出して見せる


「ぁぁ…、それ…嘘…」

「ぇ、嘘!? 」


「…む…注文は…」

「スルーするんだ!? 」


「………」

私がいけない事をしたような空気になる


「ぁ、ぇっと、じゃあ紅茶を 」

「…うに… 」

どこか嬉しそうに、本当に微かにだけど、口元が笑った気がした


秋色のする店内で、私はカウンター席ではなく、前に四人で座ったテーブル席に座る

狭い空間なりにちょうどよい一つだけのテーブル席


木目の優しいシンプルな形状が、喫茶店の可愛い温もりのある雰囲気をさらに演出している


ほのかな木の香りと、優しい触り心地に心が安らぐ

四つの素朴でレトロなカントリー風なイスも可愛い


(あれ?)

座ったイスに違和感を感じた


たぶん、普通の人じゃわからないくらいの、けれども、低体温者の私だから気がついた疑問でもあった


イスが、ぼんやり人肌並に温かった


(奏かな? それとも、ちゃんと普通にお客さんが来てるのかな? )

そんな疑問を頭に巡らせていると、奥から青白い顔色の奏がやってきた


「………」

何も言わず、もちろん視線も合わせず

注文した紅茶を私の前に置く


そして、珍しく自分から口を開いた


「アップルパイ焼いたの…食べる…? 」

「ぇ? ぁ、うん、食べたい」


見ると、カウンターの上に、大きな丸いお皿に乗ったアップルパイがあった


焼き上がったばかりなのか、香ばしい生地の香りに、甘いりんごの匂いが鼻に伝ってきた

思わず頬張りたくなるその匂いに、お腹が鳴りそうになる


よく見ると、奏が試食したのだろうか、一切れ、すでに切り取られ食べられた後があった


「……」

奏は黙ってそれを小分けし、丁寧にお皿によそう

小さなフォークと一緒に、紅茶の横に置かれる


「ありがとう、いただくね 」

「…こくり…」


こぼれ落ちそうなほどりんごをたっぷり敷き詰めたアップルパイ

しっかり小麦色に焼かれた生地は、フォークを入れるとサクッと軽やかな音がした


私の口に入れるにしては明らかに大きめな一口を、見栄を張って口の奥に頬張る


するとすぐに甘いりんごの蜜の味が広がった

ラム酒を使っているのか、濃厚な甘味と、それでいて重くない甘さだった

しっかりした生地の優しさが、その甘さとあいまって更に美味しい


「美味しい…、とってもおいしいよ、奏」

食べ物の力はやっぱり大事だ

もし今頃家にいたら、アップルパイどころか、きっと私は夜ごはんすら食べていなかったに違いない


悲しみを包み込むような甘味は、本当に痛みきった身体と精神を癒した


「…よかった…」

俯きながら、奏も幸せそうに目を細めた



***

そのあとは、特に話すこともなく時間は流れた


奏はカウンターの向こうに戻り、またパソコンをいじっていた

私は橙色の雰囲気に浸りながら、残りわずかな紅茶とアップルパイを交互に味わっていた


けれども、こうして何もしていないと、頭に浮かぶものは…やっぱり夕方の有珠の無惨な姿だった


‘痛み’と「さようなら」の一言だった


気を紛らわそうとイスから立ち上がり、画材道具やスプレーがたくさん置かれたカウンターを覗き込む


奏は、なにやらパソコンでオンラインゲームをしているようだった

キャラクターが画面の中のオンラインの世界を動き回っている


と同時に、奏の両手がキーボードを慣れた手つきでカチカチ押し続ける

オンライン内での他のキャラクター、つまり誰かのプレイヤーと会話をしていた


こんなものも、一人でぼーっとしているよりかはずっと見ているほうがよかった


「……なに…」

奏の手が止まり、またも不機嫌そうに言う


「いや、なにしてるのかなって思って 」


「…ネトゲ…」

「みたいだね、おもしろい?」


興味はなかった、でも何かしていたかった


「…普通…」

「そっか、奏は強いの? 」


「…スキルによる、…総合ならまぁ…、生活スキルはあげてないけど、戦闘…対戦なら 」


珍しく奏が話す、会話とは思えないくらい独り言のように早い口調だったけど、見ていておもしろかった


「…ネトゲなら…、ボクも仲間が五百人以上はいるから…」


「すごいんだね、ネットゲームって 」


「別に…ボクのギルドくらいならサーバー内で他にもっと多いとこある……」


「ギルドって? 」


「ネトゲ内のチーム、ボクがリーダー…」

「すごいんだね 」


「………」

奏は話すのに疲れたのか、面倒だったのか、口を閉じた

代わりに、パソコンの近くに置いてあった‘お弁当’を食べ始めた


それは、本来ならこんな所で閉じこもり制服姿でネトゲをしている場所にあるものではなく


学校のお昼に、仲のいい友達と囲み食べるはずのものだった


「自分で作ったの? 」


「…お母さんに…朝作っもらってる…」

急に奏が悲しい表情に変わる

濁すように、辛い言葉を口にする


(……)

そこで気がつく

ぁぁ、そうか、この子の…これもか


そう、まただ

これもまた‘痛み’だ


プラスチックの可愛いらしい小さめのお弁当箱には、毎朝作ってもらっているのか

形のいいたまご焼きに、ポテトサラダ、から揚げ、そぼろごはん


綺麗に敷き詰められたどのコンダテも…涙が出そうなほど、純粋すぎるお弁当だった


朝、冷めても美味しいように、きっとお母さんがお腹を空かせた娘のお昼を想像して作った


ただの、本当にありきたりな…お弁当だった


それなのに…


(……)

奏が、どんな状況で制服を着て此処にいるのか

少しだけわかった気がした


「…一週間前から、新学期から引きこもりなんだ…ボク、でも親には…家族の中では、まだちゃんと学校に行ってることになってる……」


「そう…なんだ」

すらすらと言うなりに、その瞳はどこか遠くを見つめていた


どんな気持ちで、お弁当を食べていたのだろう

どんな気持ちで、お弁当を空にしなくちゃいけなかったのだろう


本当は、もっと楽しい話しをしたかった

でも…カウンターの奥に追いやられ、一人ぼっちお弁当を食べるこんな子の姿を見せ付けられたら

…とてもじゃないけど無理だった


私は、初めて会ったときからずっと気になっていたことを奏に聞いた


「でも、制服を着てるってことは、やっぱり本当は学校に行きたいんだよね? 」


「………」

不意に、奏が両手でお弁当をグッと握りしめる


「……行きたいよ、行けるなら…」

だらんと俯ききって、小さな小さな声で、本当の気持ちをこぼした


「……制服姿で街を歩けば、他人からは、こんなボクでも普通の高校生に思ってもらえて……、ただ制服を着て帰る高校生達の中でも…ボクでも仲間や対等になれた気がして… 」


たったそんなことに、彼女は自分なりの幸せや喜びを生み出していたんだ

この喫茶店の奥の部屋

三畳の小部屋に敷き詰められた不気味な制服の数々に、私は気持ち悪いと感じた


だけど…あれらは、奏がカルマに負けない為の、殺されない為の

ほんの僅かに残された‘学校’への希望と防衛線だった


「だから、それが可能な夜の駅前をただ徘徊してるの?」


「………」

奏は答えず俯いたまま、小さく頷いた


どうしてだろう、幸せを感じたはずのアップルパイの香りが

このときばかりは…冷たく胸に響いた


本来の役割を果たせず空になったお弁当箱を見て…、また胸がさらに苦しくなった


奏が座るこの場所は

理由は違っても、有珠のさらに先にある痛みなんだよね


本当に、何の罪もなく、望みもせず

それなのに、人並みの幸せさえ得られないでいるんだ

それなのに、家族を裏切らなくちゃいけない


何の罪もないのに、…こんな場所にいる



それは…まるで私達と同じようだった



***

テーブルに戻り、残った紅茶を飲み干す


薄くなった香りとともに、すっかりぬるくなっていた、ぬるくて…でもなぜか、舌の上で胸にじーんと染みた


奏はまたパソコンをいじっていた、何事もなかったように、平然と


静かな喫茶店で、時間がゆっくり進む


聖蹟桜ヶ丘の夜がまた深まる


(ん? )

ふと、手元を見る


(毛糸? )

柔らかい銀色の糸が一本、木目のテーブルの上に落ちていた


まるでそれは髪の毛のようで、そしてそれは――


(有珠… )

鮮明に見覚えのある綺麗な、まるで彼女の髪のようだった


(……そっか )

そこで、私はようやく気がついた


・意味不明に呼び出されたゴキブリメール

・イスに残された誰かの温もり

・すでに一切れ食べられたアップルパイ


そして、テーブルに残された誰かに似た髪の毛



(…そうか )

そういうことか


不器用な奏の違和感の行動も相まって、簡単に頷けた


此処に、私より先に、…あの小さな子がここにいたんだね


奏が呼んだのかはわからない

偶然に私と別れた後に訪れたのかもしれない


でも私が呼ばれた理由は、きっと心配した奏なりの素朴な優しさだったんだと思う


言葉はなくても、その優しさに私はたまらず嬉しくなった



「奏、ごちそうさま 」

「………」


「あのさ…メール ありがとう 」


「………うん」

奏はカウンターから顔も出さずに小さな声で言った


その上に小銭ぴったりの代金だけを置き、私は日だまり喫茶店を出た


少し肌寒い外気が肌をしっとり包む

静寂の頭上には相変わらず綺麗すぎる夜空が広がる


ぽつりと立って思う

この同時刻、みんなはどうしているのかな


灯は、ちゃんと警察の警備や監視カメラを調べているのかな、明後日に向けた道具を集めてるころかな、策や細工を考えているのかな


ひよりは、大丈夫かな、元彼とのカルマに押しつぶされていないかな

有珠ちゃんと同じようにだけは、やっぱり嫌だから


有珠ちゃんは、もう泣いていないかな、灯のさずけたMDを聞いているかな


ウィッチは…春貴は、今はどこにいるのかな


桐島さんは、どんな気持ちで明後日の花火を待っているのかな


この街に潜む秘密をまとめるように頭に整理して、私は帰った


みんなと同じように痛みを抱えて、狭まったように見える街の夜景に幾つもの不安を浮かべて、誰もいない我が家へ帰った


そうして、私はまた


         今日を終えた



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