第27話
日だまり喫茶店の扉が勢いよく開いた
すぐに有珠ちゃんが三人に駆け寄ってくる
外傷のないボロボロの満身創痍になった姿には、満面の笑顔が溢れていた
たったそれだけの事が三人を安心させた
私達はまた、こうして笑い合うことが出来た
長い長い緊張に開放され、私達はただ嬉しくて嬉しくて小さな店内で抱き合った
灯はいつものように嬉しそうにごまかしのない笑顔でくしゃっと笑い
ひよりは優しく、どこか悲しそうにほころんだ
そして有珠ちゃんは、涙の筋を残したまま、ぽろぽろと泣いて笑っていた
―有珠っ、やり遂げました!
そう、幸せな声は響いていた
単純で、一般凡人以下の評価しか与えられなかった、たかが高一のちっぽけな存在達は、何通りも折り重なった罪の罪悪感も忘れて…
ただ大きな、子供には大きすぎる残酷な戦利品をもぎ取って無邪気に笑っていた
街が夜を迎える時間
「奏ちゃん、色々とありがとう、あと…その、ごめんね 」
少しの雨宿りのつもりが、思わぬ痛みや偶然のせいで長居してしまった
「……ちゃん付け…やめて 気持ち悪い」
いきなり気持ち悪いと言われたのには驚いた
「ぁ、ごめん…えっと じゃあ 」
人を呼び捨てにするのはやっぱり慣れない、怖い、だから他人には尚更出来なかった
「‘奏’」
多分、このときからだ
私達が他人じゃなくなったのは
「こ…交換…したい 」
くぐもった声が言う
「交換?? 」
差し出された手を見ると、携帯の赤外線部分を突き出していた
そして、…震えていた
不器用で引きこもりの少女には、たったその行動までにたどり着くのに、どれだけの勇気や不安があったのだろうか
「アドレス交換ね 」
四人分と一人はアドレス交換をした、それは現代の私達の繋がりにおける手短であり最大のツールだった
痛みの同類全員が…死なないようにする‘繋がり’だ
知っている、電子帳に名前が埋まると、なぜか嬉しくて満たされる気持ちになったりするんだ
借りたタオルも飲み物の代金も払って、謎めく奏とはお別れとなった
「また、来てもいいのかな? 」
「んに… 」
頷いたということは大丈夫なのだろうか
「じゃあ、またね 」
‘またね’自分ながらにやっぱりいい別れの言葉だと思う
別れの不安や切なさもなく、むしろ次を期待する
来たときと同じように木目の扉を開ける
少しだけ重い扉一枚を抜けた先、静寂と暗闇に飛び出した瞬間だった
「わぁっ 」
――突然、それは不意をついて私達の前に飛び出してきたのだ
物などではない
――それは空だった
見上げた目の前のそこに、もう分厚い灰空などどこにもない
ただ四人を待っていたものは、天高く晴れ渡った満天の星空だった
今にも頭上に零れて落ちてきてしまいそうな、天然のプラネタリウムが一面に浮かんでいた
音ひとつない深く澄んだ濃紺色の夜空はそれらを隠す理由も作らず、ひっそり街からはぐれた喫茶店の真上には、夏色の輝きに満ちていた
大小色んな輝きを発する幾万ものそれらが、今この瞬間にも小さな私達めがけて光りを放っていたのだ
くすみ汚れ、明るく騒々しい駅前ではこんなに綺麗な景色を見ることは出来ない
ましてや、立ち止まり空を見る人間もほとんどいない、需要もない
高く静かな丘、澄んだ場所、ひっそりと木々に囲まれた空間だけの特許だった
「綺麗ぃ… 」
「すげー! なんかスゲー感動もの 」
「ずっと見ていると吸い込まれそうですね 」
「手が届きそうなのですっ 」
小さな有珠ちゃんが背伸びをしてうーんっと星を掴もうとする
本当に届くわけない、でもつい手を伸ばしてしまいたくなる
生乾きでしおれたブラウスの袖口に夜風がすり抜ける
夏を名残惜しむ様に、ひっそりと彩られた空の夏景色だった
***
「帰ろっか 」
灯の今日一番の優しい声だった
その柔らかい一言に、各々三人は今日をやり切ったご褒美を感じた
カチャ…
ふと、背中のぼんやりとした温もりが消えた、振り返ると喫茶店の橙色の照明が消えていた
「……綺麗でしょ… 」
どこから現れたのか、またも奏に遭遇してしまった
外の真っ暗闇に潜む奏の姿は異様に似合っていた
「むむ? 今からお出かけさー? 」
「この時間…高校生減るの…」
街にいる、という意味だろうか
あらためてその姿を見ると、私達と全く同じ格好をしていた
同じ制服姿、同じ学生カバンを肩にかけ、同じローファーを履いている
しかし彼女は引きこもりなわけで、夜の街以外を歩けないという理由は自ずと解釈できた
じゃあなぜわざわざ制服を着るのか、なぜ駅前に行かなければいけないのか
(…… )
いたわるつもりで、それらは口から発っせられることはなかった
「……じゃあ… 」
微かな声で言うと、10秒後には跡形もなくその姿は私達の前から消えていた
やっぱり、奏も引きこもりとはまた別に痛みを持っている、そう確信した
あとに残ったものは、小さな雑木林の空間と、明かりの消えた不気味にたたずむ喫茶店だけだった
私達も来た道を戻り、帰ることにした
***
-桜ヶ丘公園-
土砂降りのときに放置した自転車がそのままの状態で置かれていた
公園にたどり着いたときには星は先程みたくは見えなくなっていた
煙りのおびた夜空しか宙にはない
でも、代わりに――
「めっちゃ綺麗やないさー! 」
「にゃふーっ 」
来たときは灰空と同じ色をしていた私達の街が
高い丘から見下ろした、障害物一つない街が
まぶゆい光を点し輝いていた
キラキラ光る明かりが次々と生まれ、地上の星は綺麗に聖蹟桜ヶ丘に飾られていた
私達は高い位置から、ただただそれに感動した
ただの光りだよ、でもやり遂げた達成感が、私達を感動させる理由を作り上げていた
「いい場所を見つけてしまいましたね 」
「本当に綺麗だね、でも携帯の写メじゃ…やっぱり写り悪い 」
液晶の画面越しにぼやけた街にちょっとだけ悔しくなる
「ぁー、おなか減ったさー 」
「ふふっ、普段ならもう夜ごはんの時間ですからね 」
「お菓子ならいっぱいあるです! 」
「有珠ちゃん、キャラメルある? 」
「ぁーっ、ゆりだけずるいぞ 」
「ぇー、別にずるくないよっ 」
「灯さんにも、ひより先輩にもキャラメルあげるです 」
「ふふっ、有珠ちゃんありがとうございます 」
満天の街の片隅に、澄んだ空気の中でそれは響いていた
口に入れた小さなキャラメルはとっても甘くて、すぐに溶けてしまった
けれど、ゆっくりと口の中に広がった微かな香りは、そのときばかりは大切に残したいと思った
***
「誰が後ろ乗るー? 」
灯と二人乗りをして丘を下る人を抽選する
「私は…ちょっと用事がありますので大丈夫です 」
「?ひより 用事ってー? 」
「……ちょっとです 」
不意にひよりは微笑みを曇らせて声を濁らせた
(…ひより? )
胸につっかかるもやもやが、増幅し私を不安にさせた
「ふーん じゃあ ひよりはここで今日はお別れさね 」
「有珠も駅からのバスで帰るので大丈夫です 」
「有珠 バス乗れたのか!? 」
「にゃにゃ!? 有珠小学生じゃないですよっ 」
「いやー、小学生‘だったから’なんかそれのイメージが… 」
「ぁー、私も珍しく灯の気持ちがわかる気がする 」
「ふにゃぁ… 」
有珠ちゃんの眉尻がシュンとする
「有珠はそこが可愛いんから誇るべきさよ あとゆり、珍しくとはどういう意味かね? 」
「…… 」
灯に猫のように撫でられる有珠ちゃんを横目に、そこは敢えてのノーコメントを貫いた
少しだけ街の景色を見下ろして、私達はここで別れることになった
「じゃあ ふたりとも おやすみー 」
「おやすみさー 」
「はぃ、また明日 学校でですね 」
「おやすみなのですー 」
***
公園で二人と別れ、私は灯の自転車の荷台に座った
硬くて露骨なアルミ製の荷台はちょっとだけお尻を痛くさせてひんやりする
でもそれは、なんだか今日だけは嫌じゃない
「そんじゃ ゆり 行くよー? ちゃんとつかまってな 」
「うん 」
ぎゅっと灯の腰に手をまわす
肌が近くて、少し頬が朱くなっているのが自分でもわかった
本当に血が通っているのかもわからない…冷たい身体を灯に寄せる
「ゆり…、もう少しだけ 近く 」
「う、うん… 」
服の擦れる音がして、私は灯の背中に寄り添った
見つからないくらいに、顔を背中に当て、気持ちのいい温もりに頬っぺたを擦り寄せた
灯の鼓動が感じられた
ばかみたいに、それは私と同じく鼓動を早めていた
きっと、それは同じように灯の背中にも伝わっていた
触れた肌、伝う鼓動さえも、無理矢理隠して
でも、その全てが愛しかった
「じゃあ 行くよー 」
「倒れたり事故らないでね? 」
「任せろなのさー 」
「…不安 」
息をきらして上ってきた長く急な坂道を下る
夜になっても車の数も少なく、S字にうねる道は私と灯だけの貸し切りだった
前輪が始めの一回転をしたと思うと、それは速度をあげてコンクリートの下り坂を走り抜けた
スカートをなびかせながらペダルを漕ぐ灯の足と比例して、びゅんびゅんと車体は風をきった、車輪からは微かに悲鳴が聞こえる
人気もなく、輪郭もない暗闇の道路で風に並ぶ
小さな小石にでさえ不安定に車体を揺らす
「灯、は、早いよーっ 」
「ぇー、もっとだよーっ 」
なかば灯にしがみつきながら坂を抜けたときだった
「ほらゆり、またまた景色がきれいさよー 」
「…? 」
堪らずぎゅっとつぶっていたまぶたを開いてみると
澄んだ空気が瞳に入り、横に立つ街頭を何本も飛び越していた、そのたびにまた風をきる音がする
そして――
いろは坂から見えた聖蹟桜ヶ丘の夜景の姿が、走る私達の真横に現れたのだ
「…ぁ 」
ガードレールの向こうに大きな街の全貌が黒とオレンジの色合いを増して目に飛び込んでくる
どこを見ても、どれを見ても、眩しい明かりが街のあちこちから溢れて飲み込んでいる
猛スピードで下っていたはずなのに、それはスローモーションのように感じられた、幸せな時間だった
「ねぇ 灯 すごいよ…すごい 綺麗 」
「うん、 すごいさねー 」
ペダルに添えていた両足も離して、重力と風に身を任せる
二人はその光景に見入った
少しだけ何もかも忘れて、夏模様と夜風の匂いに酔いしれた
(…… )
こんな風景を見て思う
劣等生の私達があがいていることに、きっと間違いはないんだと
世界は織り交ぜてぐちゃぐちゃで汚い、汚くてわからない…
―でもね
幸せに なりたいから
こういうありふれたのでいいから、人に聞かれたら笑われるようなので大丈夫だから
幸せになりたい
ちょっとだけ肌寒い残暑残る九月の夜は、灯の温もりを感じれるこの上ない理由になった
すれ違う小さな明かりを点す街頭も、緑の塊が通り過ぎるだけに見えた雑木林も
前のコンクリートに少しだけ照らされた白い線も
結わいた後ろ髪をなびかせる風も
すべてが嬉しかった
この猛スピードの坂が、まだあとちょっとだけ残ってる
まだちょっとだけ、終わるまで…ね
ぎゅっと抱きしめた大切な背中に、自分の精一杯の痛々しい低体温を押し付ける
最後のカーブに差し掛かり、灯はブレーキを目一杯まで握りしめた
ただ何も言わず、ゆっくり、ゆっくりと、まるで私の意図がわかっているかのように
キィキィと悲鳴をあげる車輪と彼女に身を預け
坂の終わりまで下った
***
私達は何事もなかったかのように、作戦も痛みも無くして、他の別れる高校生達と変わらず
バイバイをした
現実味をおびた赤色灯がコンビニの前を通過しても…
私達は ただの高校生でいた