第20話
編み戸の向こうから、9月の変化を伝える虫やカエルの声が響かせる
夏の陽も沈んで夕闇に染まった街は、どうしてこんなにも穏やかでワクワクしてしまうのだろう
電気もつけない部屋でひとり、編み戸の隅に体育座りで夕闇の夏模様を眺める
アイスを一本口にくわえて、秋色を含んだ外気の風は何を考えるわけでもなく、今日一日の疲れを癒してくれるようにぼーっと心を落ち着かせた
そんなときのことだった…
机にひとつポツンと放置されていた、あの拾った‘携帯電話’が
なんの前触れもなくバイブレーションで音を張り上げて誰かの受信を伝えたのだった
ブーッ…!、ブーッ!、ンーッ……!
机を叩いて開けろと私に叫びつける
「……っ 」
いきなりの出来事に、取るべきか、取らないでやり過ごすべきか
(……はぁ )
不安と嫌な感情が混ざったような苦いざらざらとした気持ちが胸に広がる…
結局真っ暗な部屋でそんな事を考えても、ひとり素直に重い身体で立ち上がる
足元まで来た夜をたどって、私は机の上に残された‘それ’を右手に取った
少しして振動音は止み、携帯の小さなサブ画面にメール1件の受信が表示された
どうしてこんなめんどくさい物を拾ったのかとつくづく自分自身を責めたくなる
乗り気もなく、恐る恐るパカッと開き、画面の光りと共に映し出されたディスプレイには
「ぇ… 」
それはまさに予想外の光景だった
メール受信‘兄ちゃん’
かすんだ瞳をこらしてよく見る、想像とはかなり違ったものに私は驚いた
えっと、つまりこれは
私が拾った携帯の主は、その兄に頼んで所在を確かめる為にメールをしたのだろうか?
何はともあれメールを開く
しかし拾い主とはいえ、他人の携帯をいじるのはかなりの罪悪感があった
-本文-
「すいません、その携帯を落とした本人です もしこれを拾ってくれた人がいれば、あなたは警察の人ですが? 普通の人ですか? 」
……
(本人…)
あの初作戦の日、帰りに私とぶつかった人
私の勘違いかもしれない…
けれどもこの人に、私は確かに他の人とは感じない体温の自然な不自然を感じた
30度の身体で…それは普通ではありえないことで
今のこの携帯越しの私とぶつかった人には、本当にもしかしたら
もう一人しかいない、30度の身体を持つ連続通り魔の可能性があるかもしれない
そう思えば思うほどに
警察やそれらに感じる恐怖感以上に、再び目の前の物が怖くなった
返信… しようかしないか悩みながらもアドレスを開いてみると
(…??? )
アドレス帳には、なんとも淋しい空白が広がっていた
ただたった一人
‘兄ちゃん’とあるだけの登録アドレス
ボタンを押して詳細を覗くと
‘紺野 春貴’
そしてプロフィール画面にボタンを進ませる
この本人の名前は
‘紺野 美弦’
間違いない 兄弟…
でも――
一度深呼吸をして冷静に考えてみる
兄弟や親がいる普通の人間が、そんな身体なのを身内に見つからず、しかも何度も通り魔などという行為が可能だろうか?
それにあの三人を斬った理由は??
テレビで大騒ぎのさなか、携帯電話をなくしたくらいでメールできるような余裕の心境でいるだろうか?
(やっぱり 体温のは勘違い…っぽいのかな )
少し過剰に疲れていた心の中で徐々に落ち着きを取り戻し
冷静に、ただ目の前で困っている人に返信メールを作成する
-本文-
「すみません、この前、駅前でこの携帯を拾いました、警察ではなく一般人です あなたはお兄さんでしょうか? 」
単調な文を打って
私は兄の春貴と思われる人物の携帯にメールを
――返信した
「ふぅ 」
安心の理由を見つけ、一息ついて何事もなかったようにまた編み戸の隅に座る
(やっぱり…考えすぎだったのかな )
今の自分の状態の不安定さを痛感した
……
……
(あれ? )
このメールの文章…
書いていて少しおかしい事に今更ながらに気がついた
送られてきたそのメールをもう一度読み返すと
その文章が意味していることは
‘警察’の人ですか‘普通’の人ですか?
(!…これってっ! )
この本人はつまり…
普通なら落とし物をして第一に行う
交番や警察に、携帯電話が拾われていないか相談や電話をしていないことを意味していた
そうでもしなければ
こんな回りくどい文章になどなっていない
それはなぜなら、拾った私も今‘同じ状況’だから
(…これは―― )
安心して返信してしまった矢先、織り交ぜながら深く考えるほどに
さきほどまでこの美弦という人間に感じた恐怖や違和感のピークがじわりと上がっていく…
恐怖が頭をめぐって叩いた
そして、ふと、こんな状況で一つぼんやりと思い出したことがあったんだ
‘紺野 春貴’
さっきのアドレス帳に唯一あった、兄と思われる人
(…… )
私は…
この人を知っている
いや、正確には人ではなく名前だけを
秋風を浴びながら、私はずっと昔の記憶を掘り返した
私が去年、海で死んだ日
病院に運ばれた
その病室の
まさに隣の部屋に入っていた、書かれていた名前
確かにそれが…それこそが‘紺野 春貴’だったっ
私と同じ重傷患者だったのに、何週間と入院していたにも関わらず
私の記憶では誰一人家族や友達や関係者が彼の部屋に訪れることはなかった
まさしくそれは、中三の私には‘おかしい’という気持ちを抱かせた
でもしなければ 私がこんな人の名前など覚えているはずがなかった
結局、一度も顔を見ることもなく私が先に退院をした
それから 体温やリリスの傷を負った
それだけ不自然なことだったんだ、私はその死んだ一連のトラウマの記憶に、忘れかけて残っていた名前を思い出した
(なんでもっと早くに思い出さなかったのっ )
返信…、してしまってから思い出したことを後悔する
徐々に、また恐怖のピークが舞い戻る気がした
「ゴクッ… 」
唾が喉を乾かす
もし、この人が私と同じ‘理由’の重傷患者だとしたら?
そしてこの携帯の主、弟…
兄がそんな状態で病院に何週間もいたのに
いや、弟だけじゃない、母親、父親… 誰一人として彼の病室を訪れなかったのは、なぜ?
…おかしい
彼が通り魔なら、他人を意図も簡単に斬りつけるような人間なら
(家族も… )
想像していた自分に、いきなり鳥肌が立った
…怖い
‘紺野 春貴’
‘紺野 美弦’
私が話している相手はどっちなんだろう??
(この人が もしかして本当に )
他人を何度も斬りつけてるような狂った人物がこの携帯から私を呼んでいると思うと
恐ろしくて恐ろしくて…堪らなくなった
身体の接触の違和感、メール文の推理
家族との不自然さ
複雑に絡んだ恐怖の理由
そして私が話している人物の正体不明の謎
私は、ただの勘違いを 願った
これがひよりの言う、私の背負ってしまった‘カルマ’なのだろうか?
(もういい…今日は眠ろう )
今日一日の疲れ切った身体を休めようと 私は倒れるようにベットに横になった
………
***
-同時刻-
……
あいつの携帯をなくしてから…
それでもあいつとの繋がりをどこか探したくて
俺はハンバーグの材料をスーパーで買った
ひき肉、玉ねぎ、卵、
どうしてもまたあいつの味が食べたくて
もしあいつの味が出来たら、また微かな美弦との繋がりが増える気がしてたから
………
パソコンでレシピを調べて、久しぶりに電気のついた部屋で台所の前に立った
切ってるときの音、こねてるときの音、焼いてるときの音
それだけでさえ…俺にはあいつが笑顔で作ってくれてたときの記憶が、楽しそうな懐かしい記憶が溢れ出してきそうだった
また
――泣きそうになってた
こんな孤独で寂しい…一人でハンバーグなんか作ってたって、あいつになんか会えるわけないのに…
……
……
結局、俺なんかの作ったハンバーグは…美弦の味になんて到底ならなかった
蹴り飛ばしたく…なった
一気に、久しぶりに感じていた空腹感は消え
俺は…作ったそれを、流しの三角コーナーに投げ捨てた…
………
「美…ツル っ 」
また泣きそうになって 必死に堪えようと
誰から逃げるのか
一人しかいない部屋の明かりを消して、惨めに真っ暗闇の中で隠れて縮こまり座る
鳴咽まじりのしゃっくりが部屋にある唯一の音になった…
まだ微かに向こうの部屋からあったかいハンバーグの香りが当たり前のように漂ってくる
――
「っ…ッ… ミヅル…ッ! 」
悲しいくらいにつんざくひどい声をからして叫んだ
一人の残響がむなしく一人の耳に響いた
泣き声はいつだって悲しみに変わるだけで、醜い自分を…こんなにも証明してしまうだけで
…誰か助けてくださぃ
「俺は…どうすれば いいんですか…ッ 」
必死に涙は流さないよう、頭をぐっと震える両手で抱え込んだ膝の中に隠した
――もう…誰の為なんだっけ?
俺は誰の為に、こんな犯罪者になったんだっけ…
なにがしたかったんだっけ?
なんでまだ生きてんだっけ?
「そうだ… 」
あいつら4人を斬って…敵討ちを、してるんだっけ
‘桐島 逸希’
最後のあいつだけは、どうしても…斬りかかる為のひとりになる時間を得られずにいた
美弦を轢き殺した四人を知ったのは、つい最近だった
元々死亡轢き逃げ事件というものは、今の警察の検挙率では95~100%と高い検挙率を持っている
ぶつかったときの、いわば車の指紋である破片や、タイヤの跡、目撃者
犯人はその人を轢き殺すつもりで轢いたわけではないために、現場には、証拠や他にもたくさんの物が同時に残る為だ
‘死亡轢き逃げ事件は逃げ切れない’
それが現状の警察の体制のはずだった
それなのにも関わらず、一年経っても警察からはまともな美弦を殺した犯人の情報や連絡は一つだって見つからなかった
俺は とっくに警察なんか…信じなくなった
所詮、俺の苦しみやどんな気持ちで美弦が轢かれて死んでいったなんて他人は思ってもないんだって
そんな裏切りや怒りに近い疑問を抱いてから
今年の夏休みも終わりかけたある日
家の郵便受けに‘一通の茶色い封筒’が入ってたんだ
……
……
その送り主こそが…‘桐島 逸希’だった
内容はと言えば、自分達四人が俺の弟を殺してしまった犯人だと言うこと
延々と何枚にも書かれた謝罪文、それもまるで謝罪文の見本を写して書いたような 俺や美弦が二の次のような、枚数だけの薄っぺらい謝罪だった
そして、会いに来るわけでもない、たった一通の封筒の中の最後には
もう少しだけ待ってほしい、という俺に対するお願いが書かれていた
そんなもんで、誰が納得すんだよ、馬鹿にすんなよ…ッ!
だから俺は、使えない警察…いや、もうきっと どこかで警察もぐるなのかもしれない
とにかくだから俺は、あいつら四人を斬ると誓ったんだッ
どうしても…、あいつらを許せなかったから
―――
もう…どうせ犯罪者なら
――殺してもいいのかな?
………
――どうすれば…いいのかな?
ポケットの中に手を入れて探す
美弦の存在を確かめようと必死にもがくけど、もうそこに…美弦の携帯電話だってなくて
ねぇ…怖いよ
本当に…俺は俺でいれなくなりそうだよ…
離れたくないよ…!
止まらないんだ…っ!
そっと、俺は自分の携帯電話を取り出した
……
ぼーっと虚ろな目で待ってみても、もちろんあいつからの連絡はなくて
そして…俺はなくした美弦の携帯に…助けを求めるようにメールした
-本文-
「すいません、その携帯を落とした本人です もしこれを拾ってくれた人がいれば、あなたは警察の人ですが? 普通の人ですか? 」
もしこの救難信号の届いた先が警察なら…俺は終わるんだろうな
なんかもう、ただそれすらも疲れたよ…
………
……
こんな俺でも呼吸することぐらいは許されてんだよな…
なんもない世界でさ
鳴咽まじりのしゃっくり声に、こんなのが呼吸してることなんかに気がつくんだ
真っ赤に腫れた目が携帯電話の画面の熱に触れて染みて
…俺は受信フォルダと送信フォルダを交互に行き来して眺めたりしていた
アドレス帳のたった一人のあいつとの
あのくだらない会話のあの約束も、あのおかえりの会話も、
あのおつかいのときの会話も、
あの…ありがとうの会話も…っ
しっかりなくなることなく全部が全部残ってて…っ
俺らにも確かに歴史があったことを、すぐ隣で生きていたことを
共に歩んだ足跡がしっかりと残されたまま
それと同時に
今日もやっぱり美弦がいないことを思い知らされる
1回呼吸して、またそんなことを思ったんだ…
まるで寂しさの塊を眺めているようだった
こんな物がなかったら、俺は本当に独りなんだなって
……
……
「!?っ」
ブーッ…!、ブーッ!、ンーッ……!
それはいきなりの出来事だった
ふと、持っていた携帯がバイブレーションで鳴った
‘メール1件 受信’
それの送り主は遠く離れた‘美弦’からだった
俺は慌ててギュッと強くボタンを押した…!
-本文-
「すみません、この前、駅前でこの携帯を拾いました、警察ではなく一般人です あなたはお兄さんでしょうか? 」
「ぁ…」
意味も分からず、泣きそうになった…
美弦からのメールが来た嬉しさに
もう美弦じゃない他人からの冷たいメールの悲しさに
でもそこには美弦の温もりがあって
…今度は 今度も
やっぱり、また泣いた
涙はこぼさないように、涙ぐむ瞳たっぷりに小刻みに震える唇を痛いくらい噛んで我慢した
溢れて…溢れて…っ
声にならないくらぃに汚い嗚咽の呼吸を繰り返して
明かりに染みる瞳でメールを読んだ…っ
優しかった美弦の笑顔を画面に思い描いて、色あせていく美弦との思い出に、投げ捨てたハンバーグのわずかな匂いに
どんどん画面はくすんでいった
たまらずくもる視界を閉じた瞳の中でも、その大粒のモノが行き場をなくして土砂降りで溢れかえってきた
それで… もう1度
今度は泣かないように
手のひらに握った‘死人’に、俺はまた1通のメールを
――返信した