第2話ー① 治験の誘い
木倉が高橋に紹介したバイトは、新薬バイトだった。製薬会社が開発した新薬を商品にする前に人体で試してデータをとるのだ。木倉によれば、2~3日の間、そこの会社の施設に拘束されるが、やる事は薬を飲んで、たまに血を採ったりするだけだという。バイトの間は絶対安静が条件なので、ベッドで寝ているか、マンガなんかを読んでくつろいでいたら終了するとの事。
面接の日、その日もスーパーのバイトが朝5時まであり、その面接は朝10時だった。一度家に帰っても良かったが、寝過ごしそうだったので、自転車でブラブラして時間を潰すことにした。スーパーは、市街地の北西の外れにあった。気ままに自転車を走らせると、
家の前を走る国道5×に出た。さすがにこの時間、交通は少ない。何やらもうすぐ、大きな大会が来るという事で、メイン会場の前を走るこの国道は、突貫工事がされている。元々あった歩道をぶっ壊して、レンガ風のおしゃれな歩道ができあがりつつあった。歩道の上にあったバス停も棒だけが立っていたのが、
屋根がついている。これらにも何十億という費用がかかっているのだろう。たかだか一週間前後の大会のためにそんな工事をするなら、
市街地から外れた山間部の道に歩道をつけた方がよっぽどいいと思う。自転車で通っていると、大型ダンプに轢かれそうになる所がいっぱいある。行政がやる事は、市民の望んでいる事からどうもずれている。まあ消費税位しか払っていない自分には何もいう権利はないのだが…。
5×号をメイン会場を見ながら南に折れるとターミナル駅の前に出る。朝まで仲間と飲んでいたのか、千鳥足の若者がゲロを服に撒き散らしながら歩いている。駅前には、これまた大会の期間に合わせて建てたのだろうか、
地方都市に似合わないピカピカの高層ビルが周りの景色に馴染めないまま突っ立っている。
ゲロゲロ青年とピカピカビルのミスマッチに
何故か親近感を覚えた。
そのまま駅前をパスし道なりに進む。道路は南から西へ進路を変え、景色は平凡な郊外へと移り変わる。それにしてもコンビニが多い。これだけあってよく潰れないものだ。代りに昔あった個人商店はどんどん消えているのだろう。24時間営業、年中無休のシステムはあっという間に広がった。次は何を売りにするのだろう。後は極端な価格競争しか残っていない気がする。
さらに直進すると、二級河川にかかる橋があり、そこから道路は片側一車線となり、新幹線の高架が横を走っている以外は田園地帯が広がるのどかな風景になる。高橋は橋の手前で再び進路を南に取り堤防上の市道に走っていく。
その道は高橋の定番のサイクリングコースになっていた。気分が低下したまま硬直状態になった時は、自転車で目的地を決めずにブラブラ走ると幾分マシになる事がある。この堤防の道の他にも色々走ったが、気がつくとここを走っている事が多かった。
人は乗り物にいる時とトイレの中が一番考え事に集中できるというのをどこかで読んだ。
それはどういう事であろうか?何もしていないではなく、これといって何もしてないような感覚。何かしなければならないといった焦燥感から解放され余った頭が自由になるのではないか?難しく考えるとキリはなく、高橋は見慣れた風景をいつものように、ぼんやりしながら漕いでいた。
堤防沿いに建つ町工場を見ながら、立体交差するバイパスの下を潜り抜ける。巨大な浄水施設がありそこを過ぎると川幅は急激に広くなり海に出た。サイクリングコースの終点だ。フェリーターミナルがあるがまだあるがまだ動いていない。急に島に渡りたくなるが面接があると気付く。道路を挟んだ西側の駐車場にある自販機でポカリを買う。旧式でオール百円だった。ポケットからフロンティアを取り出し一本吸う。木倉には軽いと言われたが俺はこれで十分だ。
目の前の海は波がほとんどない。というよりフェリーターミナルの西側の海は締め切り堤防で仕切られているので、海というよりは大きな湖だ。ターミナルはそこから突き出すように東側に設置されている。漁船の汽笛を聞いていると時間の感覚がなくなる。黒猫がじゃれてきたので携帯をみると7時前だった。
ここに着いてから30分以上もいる事になる。高橋は自転車に乗ってターミナルを後にした。
高校時代、数学で定理かなんかの証明をする時、よく教師が「行きはよいよい帰りはこわい」といったフレーズを連発していた。定理は成立する証明が終わった後、その定理が成り立たない事が成立しない証明をしなければならない。それが難しいところから来ているのだが、教師がそのフレーズを連発すると数学とは全く関係ない酔っ払いのおっさんが浮かんできた事を思い出す。
自転車の場合、帰りはただだるいだけだ。
行きのどこまでも自由に走れるという気持ちと違って、家に帰るだけなので妙に醒めてしまうのかもしれない。行きに自由に走ったら走っただけ帰りもだるくなる。
同じ道を帰るのは嫌なのでいつも違う道を選んで帰っていた。しかしこのルートの場合、余り遠回りせずに帰れる道は東側を走る幹線道路しかないので、今日は素直にその道で帰る事にした。この道で普通に走ると一時間でさっきのターミナル駅前に着いてしまう。面接の場所は駅から10分程の所なので8時過ぎには着いてしまう計算になる。面接は10時なのでなるべくゆっくりペースで帰ったが8時半に駅に着いてしまった。
さっきのゲロはまだ残っていて駅員さんがそれを片付け始めるところだった。時間を持て余してもしょうがないので、一旦家に帰りシャワーを浴びてから行く事にした。国道5×号は駅方向に進む車で相変わらずの渋滞で、歩道の突貫工事のせいで余計にひどくなっている。その通勤ラッシュと正反対の方向に自転車を走らせる高橋は、社会にはじけ飛ばされていく様子とそれとをだぶらせている自分がいる事に気付いた。