第12話ー① 夏の匂い、暗闇の手触り
アパートに帰った高橋は、少し気持ちの昂ぶりを感じ、辺りを自転車でぶらぶらと散歩することにした。郊外にある高橋のアパートの近くには、まだ田園風景が残っている。
いつの間にか日は傾き、空が今日のゴミを燃やし始めていた。高橋は車道から自転車をあぜ道へと突っ込ませる。凹凸に合わせて体が上下し、その揺れが疲れた脳を無理やり目覚めさせる。体中の力を抜き、身体そのものをサスペンションの代わりにする。
そこら中で蝉が鳴いていた。田んぼの上から、夏の匂いが立ち上ってくる。人間の五感の中で嗅覚が一番原始的だというが、それは本当なのだろうか。土の匂いを吸い込むと、不思議と満たされた気持ちになる。
このまま田んぼの真ん中に寝転びたくなったが、土地の持ち主なのか、こちらを見ているおばさんに気づいて思いとどまった。世の中に邪魔者が多いことは分かっているが、せめて感情がのっている今くらい、もう少し上手くいってくれればいいのにと思う。
太陽が沈むと、闇はあっという間に広がっていった。子供の頃は怯えていた暗闇が、今は自分と世界が溶け合っていくようで、心地よかった。
松野美恵子は、昨日の約束通り、ちょうど午前七時に迎えに来た。宗教家という肩書きからは想像しにくい、派手な服装だった。白いスカートに柄物のTシャツ、腰には上着を巻き、首元にはバンダナを巻いている。
これまでも洒落た服を着ていた印象はあったが、今日は一段と気合が入っているように見えた。まさか俺と会うためではないだろうが、宗教の大会に出るにしても、ふさわしい格好とは思えなかった。
「斉藤君、おはよう。用意はできてる?」
「ええ……まあ一応」
松野の車は、少しプレミアムなスポーツカーだった。服装とは妙に釣り合っているが、宗教家がこんな車でいいのだろうか。どうでもいいか、と思いながらシートベルトを締める。
松野はダッシュボードからサングラスを取り出し、運転席に座った。
「斉藤君、昨日と同じ服じゃない。若いんだから、もう少しお洒落しなきゃだめよ。お姉さんなんて、斉藤君とドライブするから気合入れてきたんだから」
「その格好で大会に出る気なんですか?」
「大会では役員は正装しなきゃいけないんだけど……それじゃ気分が出ないでしょ?」
少しバツの悪そうな表情を見せる。その一瞬、彼女の素の部分を覗いた気がした。たとえ本心が別にあったとしても、俺のために洒落てきたという言葉は、心地よく胸の中に流れ込んできた。
「じゃあ、行きましょうか」
松野はサングラスをかけると、アクセルを強く踏み込んだ。




