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快速四号  作者: ヤーツツ・トモミ
快速四号
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第10話ー① 黒い傘

駅に着くと、大勢の人が構内に固まっていた。電光掲示板を見ると、電車は台風の影響で全て運休。もう明日まで動かないだろう。

電車以外の交通手段を持たない高橋は、途方に暮れた。とりあえず、このずぶ濡れの身体を何とかしたい。


駅員に近くに銭湯はないかと尋ねると、ちょうど駅前にあるという。駅前ロータリーの角を曲がり、少し歩くと、古びた商店街の入り口に赤と青の暖簾が強風にはためいていた。


中に入ると、さすがに人は少なかった。まだ夕方ということもあるが、この台風の中で営業していること自体に感謝だ。脱いだ服をコインランドリーに入れ、冷え切った身体を湯につけた。


お湯の感触は最初、熱く、身体の表面と反発するように硬い。それが次第に馴染み、柔らかなものへと変わっていく。柔らかい何かが全身を包むように……無数の手が纏わりついてくるように……。


――やめよう。さっきのことを思い出すのは。


高橋はなるべく何も考えないようにしながら湯船を上がり、身体を洗い始めた。しかし身体を擦る手には、全身が真っ赤になるほど力が入っていた。


服を乾燥機にかけ、まだ生乾きだったが構わず銭湯を出た。出てから、駅までまた濡れていかなければならないことに気づく。先ほど以上の雨風に、高橋は思わず舌打ちした。


自然と手が傘立てに伸び、傘を盗んでいた。


人の傘を盗んではいけないことは知っていた。だが、「もういいや……」という自分の声に抗うことができなかった。傘立てが浮き上がるほど乱暴に一本引き抜く。骨の一本が少し曲がった黒い傘。誰のものかなど、どうでもよかった。


駅に戻ると、さっきの人混みは幾分減っていた。迎えが来るなり、何なりしたのだろう。もう二十人もいない。それでも今の高橋は、たとえ赤の他人でも同じ空間に居たくなかった。独りになりたかった。


ターミナル駅までの切符を買い、駅員に見せて改札を抜けようとする。


「お客さん、改札の中に入っても電車は動きませんよ」


「いいんです。再開するまで動けないんで、ホームで待ちます」


「今の段階じゃ、いつ再開するか――」


駅員の言葉を片手で遮り、高橋は高架ホームの階段を上った。駅員もそれ以上は咎めず、高橋を見送った。


ホームに上がると、備え付けの椅子はすべて水溜りを作っていた。幸い台風の勢力も少し衰え、屋根のある一角は雨をまともに受けていない。椅子の水を手で払って、四つ並んだそこに高橋は横になった。


少し残った雨がTシャツに染み込み、冷たい。高橋の網膜は焦点を結ばず、ぼんやりとホームの屋根を映していた。


何もすることがなくなると、否応なく先ほどの出来事が蘇る。あの冷たい皮膚の感触。その感触だけで、自分がもう後戻りできない闇の道を進み始めたことがはっきり分かる。


後悔……?

そんなものに意味はない。もうすべては始まり、そして終わっている。振り返っても、あるのは闇だけだ。闇の中で、足を踏み外すのを待っている。


ただ、楽に落ちられたら……。


高橋の中で、心の負の力が一本の形に集まり始めていた。これまで僅かに揺れていた心――

俺も皆と同じような幸せが……。

曝け出して笑い合える日が……。

平凡でも温かい家庭。

心を閉ざした両親との和解。

いじめに怯えていたあの日々も、いつか忘れられる……。


――もう断ち切ろう。

俺は死ぬ人間だ。社会から弾き飛ばされた存在だ。

だから……もう、バカにされることを怖がる必要もない。偉ぶる必要もない。


自分で作った最期の道を行く。


今、高橋の心は真っ黒になった。


高橋は携帯を取り出し、サイト《M》を開いた。闇の住人たちは、まだ答えを見つけられず右往左往している。高橋は一度だけ呼吸を整え、初めてのコメントを送信した。


『はじめまして。究極の安楽死薬が手に入ったので配ります』


三時間後、電車は再開した。

《この地域は暴風圏を抜け、見合わせながら運転再開》

と、電光掲示板が告げている。


駅に残っていた人々が、一斉にホームへ駆け上がってくる。横になっていた高橋も起き上がり、一瞬迷ったが、朝までここにいることにした。今、電車に乗っても帰る場所がどこにもない。


朝まで待った方が動きやすい。夜の街には、得体の知れない敵が無数に潜んでいる気がした。


朝まで、次の行動を考えよう。


高橋は再び横になり、軽く目を閉じた。盗んだ傘も持ってきてしまっている。ふと、ジーパンのポケットの異物感に気づいた。――あの五十万の封筒を、そのまま持ってきてしまったのだ。


しまった……。

これじゃあ本当に、ただの闇商人だ。


そして同時に、あの男の部屋で手袋をつけ忘れていたことを思い出した。



「けっ、俺の傘盗まれちゃってるよ……今日は厄日だな。メンツも集まらないし、傘は盗まれるし……」


男は鞄を傘代わりに、小走りで駅前ロータリー脇の交番に駆け込んだ。


「後藤さーん、後藤さーん!……いないの? お巡りさーん、事件だよ!」


半分眠ったような目を一度ぱちくりさせ、警官が奥からのそりと出てきた。


「後藤さん、大変大変、大事件!」


「騒がしいね。なんなのよ」


慌てない様子を見ると、男とは顔なじみらしい。


「俺の傘が盗まれた!」


「はは、そりゃ災難だな。銭湯帰りに濡れちまったか」


「笑いごとじゃないぜ! バスも止まってるし、今夜はここに野宿だな」


「泊まらせる場所なんてないよ。それより今日のアレどうすんの? 吉村さんがここに居ちゃ始まらないじゃない」


「ここでやっちゃう?」


吉村と呼ばれた男がおどけると、後藤は失笑気味に手を振った。


「……どのみち一人、メンツが足りそうにないしな」


「そうなの?」


「覚えてない? 上村さん。いつも暇そうなのに、こんな天気の日に電話にも出なくて……」


後藤は軽く相槌を打ったが、目だけが一瞬、動いた。


「こんな日にね……」


後藤は、ぽつりと呟いた。


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