第9話ー⑤ 三段の眠り
男はその後、高熱時の風邪で感情が制御できなくなった時のように、目から大量の涙を流しながら嗚咽を漏らしていた。もしかしたら、薬の影響で、風邪の時のような症状が体内で起きているのかもしれない。安楽死薬といえど、簡単には死なせてくれないのか……。
男は嗚咽の途中で何か言っていたが、もはや聞き取ることはできなかった。
高橋は男の手を取り、「大丈夫、安らかに逝けますよ」と言ってやった。男はその言葉が分かったのか、わずかに首を縦に動かした。
しばらくすると、男の体はピクリとも動かなくなった。どうやら第一段階が終了したらしい。この後は、高橋自身が治験で実験台になった、強烈な睡眠薬のような薬剤が体内に吸収される段階に入る。カプセルの溶解時間は、第一・第二・第三段階がそれぞれ重ならないよう調整されている。
高橋が治験を受けていた時は、最初に重い頭痛を感じた。しかし今は、第一段階で脳が麻痺しているため、それすら感じないのかもしれない。
男は目を開いたまま、眠りに入ったようだった。手首に触れると、脈はまだ動いている。高橋はポケットから携帯電話を取り出し、カメラ用のライトを男の瞳孔に当てた。瞳孔は小さく収縮した。間違いなく、男はまだ生きている。
パソコンのデータによると、第二段階の時間は約十分。体を深い混迷状態に導き、第三段階のショックに耐えられるようにする。第三段階では、心臓に約三分間、薬剤を少しずつ投与し、最終的にその動きを停止させて死に至らせる。
男の顔は第二段階に入り、穏やかになった。ただ熟睡しているように見える。そしてさらに十分後、男の呼吸は明らかに弱くなり、脈も遅くなっていった。
やがて男は二度、大きく深呼吸をした後、それきり呼吸を止めた。
しばらくして脈も止まり、高橋は再び男の顔にライトを当てた。男の瞳孔は、もはや反応しなかった。
男は、間違いなく死んだ。
高橋が立ち上がり、部屋を出ようとした時、机の上に置かれた分厚い封筒が視界に入った。あれが、男の言っていた五十万か……。思わず手に取る。中には、新札の福沢諭吉が整然と並んでいた。
……しかし、この金を受け取ってしまえば、今しでかしたことが信念でも何でもなく、ただの人殺しになってしまう気がした。
高橋が封筒を戻そうとした、その時だった。
男――上村の背広の内側から、大きなベル音が鳴り響いた。高橋は身動きが取れず、その場で硬直する。しばらくすると、甲高く、やけに陽気な男の声に切り替わった。
「上村さーん、隣の吉村です。今晩、麻雀来ませんか? いつものメンツで……上村さーん……あれ? 出ないな。仕事、見つかったのかな? またかけます……」
上村というこの男は、どうやら隣人との付き合いが、わずかながらあったらしい。
高橋は大きく深呼吸し、吹き出した額の冷や汗を腕で拭った。もう、ここに長居はできない――直感的にそう思った。
靴を履き、物音を立てないよう静かに部屋を出る。
外は相変わらずの土砂降りと暴風で、アパートの軒を出て十秒も経たないうちに、全身ずぶ濡れになった。駅まではおそらく二、三キロある。走るしかなかった。
傘を持ってこなかったことを強く後悔しながら、台風に逆らうように高橋は走った。途中、コンビニがあったが、今さら傘を買っても同じだと思い、そのまま通り過ぎた。
――いや、本当は、ただひたすら走り続けていた方が、何も考えなくて済んだからかもしれない。




