第9話ー③ 台風と死に神
十時半、目的の駅に着いた。駅を出ると、まだ青空が一部見えていた。約束の時間までは、ずいぶん余裕がある。駅前の喫茶店に入る。そこは待ち合わせの店だった。初めて入ったが、年季の入った趣のある店だ。
モーニングはもう終了していたので、コーヒーとサンドイッチを単品で頼む。
すると、五十を少し過ぎたくらいだろうか。白髪が混じり、顔の皮膚の張りがなくなった、初老といった雰囲気の男が入ってきた。背広の襟はくたびれ、体全体に疲労感が漂っている。男はカウンターに座り、高橋と同じくコーヒーを頼んだ。
店内の客は、高橋と男の二人だけ。静寂が店を包む。
高橋は、もしや、と思ったが、ターゲットとはネットと電話でしか接していない。外見だけでは分からない。
……まだ時間はある。
高橋は会計を済ませ、店を出た。ガラス越しに店内を見ると、男は煙草を手に持ったまま、虚ろな目でどこか一点を見続けていた。燃え尽きた煙草の灰が落ちたのと同時に、高橋は歩き出した。
駅の近くには競艇場があり、駅から無料の送迎バスが出ていた。台風が近づいてはいたが、どうやら開催しているらしい。平日にもかかわらず、相変わらずの客入りだ。予想紙に赤ペンを持ったおやじは、いかにも象徴的な光景だった。
第三レース。風が吹き、波が立っている。競艇は、番狂わせが少なく、出来レースが多いと聞く。高橋は二連単を、艇を変えて二口買った。
一着は本命が来て当たったが、二着は人気五番手が入り、二口とも外れた。それから三レース続けて外し、財布の中身も心許なくなってきた頃、台風の影響で午後からのレースが中止になると告げられた。
ぽつり、ぽつりと雨が降り始める中、さきほどの喫茶店に戻ると、あの男はまだいた。あれから二時間近く経っている。
高橋は思い切って、男に声をかけた。
「誰かを待っているんですか?」
男は無言のままこちらを凝視し、やがて小さく呟いた。
「ええ……もうすぐ、私を助けてくれる、死に神を待っているんですよ……」
高橋は、あと数時間もせずに、自分の手によって命を絶つことになる男の顔を、複雑な心境で見つめ返した。
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男の家は駅から少し離れているらしく、車で来ていた。二人で車に乗り込むと、ほぼ同時に雨足が強くなる。ワイパーを最大にしても追いつかない。視界は急激に悪化し、いつの間にか前の車との車間距離が詰まっていた。
男が慌ててブレーキを踏む。
「すいません……」
小さく謝る男。ハンドルを握る手が、わずかに震えている。やはり動揺しているのだろうか。カプセルを渡す前に、二人とも事故死するのではないかと、一瞬不安がよぎった。
男は、すでに閉鎖されているであろう工場横の空き地に車を停めた。車を降りると、高笛のような風音が、雑草の倒れるサワサワという音と混じり合い、これから本格的に訪れる嵐の前奏を奏でていた。
男は指をさし、
「あれが、私の家です」
と言った。
空き地の奥には、今の台風で吹き飛ばされてしまうのではないかと思うほど、年季の入ったアパート――いや、プレハブ小屋といった方が近い建物があった。木倉の家も古かったが、それよりさらにお粗末な造りだ。強風に煽られ、建物全体がギシギシと悲鳴を上げている。
二人は、その建物の一階、突き当たりの部屋に着いた。男は薄い木の扉を、鍵も使わずに開けた。
「狭いところですけど……どうぞ……」
高橋は何も言わず、部屋に入った。
「鍵は使わないんですか?」
「あっ、ええ。最初は使っていたんですけど……鍵を使っても、簡単に開いてしまうことが分かって。それからは、使ってないんですよ……」
男は、気恥ずかしそうに、わずかに微笑んだ。




