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快速四号  作者: ヤーツツ・トモミ
発車前
26/45

第7話ー③ 十倍の影

段ボールを抱えると、パソコンのシャットダウンを待つ間もなく、部屋の明かりを切り、鍵を閉め、引き出しに鍵束を突っ込んだ。


 段ボールを体で隠すようにして、慎重に扉を開ける。

 下では市川が、気怠そうにバイクにもたれかかり、缶コーヒーを飲んでいた。俺を待つ間に買ったのだろう。


 市川に気づかれないよう、段ボールを扉横の踊り場にそっと置いた。下からは見えないはずだ。


 呪われた館に封印をかけるような思いで、カチャリと扉の鍵を回す。


 階段を下り、市川に鍵を返した。


「ずいぶんかかりましたね。忘れ物、ありました?」


「すいません……探したんですけど……なかったですね。僕の気のせいだったみたいです。それに途中でトイレも借りたんで……」


「それで遅かったんですね。……なんか、えらく汗かいてますね。こんなに涼しいのに。それに……軍手?」


 高橋は自分の手を見て、目を閉じたくなった。

 軍手を外すのを忘れている。


 冬ならともかく、この真夏に軍手。何か作業をしていない限り、変な趣味という域を超えている。


「あっ……えーと……」


 言葉が出てこない。頭が真っ白になる。

 辻褄を合わせようがなかった。


 市川は黙ってこちらを見続ける。

 二人の間に、数秒の沈黙が生まれた。


 ——やばい。気づかれたか?


 こうなったら、素直に薬を盗み出したことを打ち明けて、警察に届けるつもりだったと言ってごまかすしか……。


 そのとき、市川がハッと何かに気づいたように言った。


「夏に手袋なんて、高橋さんって、よっぽど寒がりなんですね」


 そう言って、クスクスと笑った。


 思わぬ反応に、高橋はあっけにとられ、苦笑いを返すことしかできなかった。


 ——助かった。

 市川が天然で良かった。


 


 その後、市川を自宅近くまで送り届け、高橋はすぐさま治験事務所へ自転車を走らせた。


 事務所の前に着き、外階段の上を見上げる。


「あっ……」


 思わず声が漏れた。


 どうして気づかなかったのだろう。

 今、高橋が立っている位置と向きは、ちょうどさっき市川が立っていた場所と同じだった。


 市川が天然だとばかり思って安心した、あの言葉。

 ——もしかして。


 彼女は、俺のやったことに気づいていて、あんな発言を……?


 もしそうなら、市川は俺の行動をどう捉えたのだろうか。

 だが今となっては、それを確かめる術はない。


 ——もう、ゲームは進み出したのだ。


 事務所隣のアパートに設置された街灯が、階段に置いた段ボールを斜めから照らしていた。

 影が、元の大きさの十倍ほどにも膨れ上がって見える。


 


 アパートに帰るとすぐ、今ではワープロとしても使っていないボロボロのパソコンに、盗み出したフロッピーを挿入した。


 リーチ・コバネート薬は、黒だった。

 ——安楽試薬だった。


 顧客名簿には、何百という名前が並んでいる。

 住所、勤務先、年収、そして——この薬を契約する理由。


 不思議なことに、年収の幅は様々だった。

 何億という金持ちから、収入ゼロの者までいる。


 ビジネスなら、金持ちばかりが並んでいそうなものだが……。


 そして、最も高橋の目を引いたのが、安楽死の理由だった。


 病気。

 死亡保険金目的。

 自殺志願。


 ……じさつしがん。


 この組織は、俺がやろうとしていることを、ビジネスにしようとしている。


 ならば——

 俺は無償のボランティアで、この究極の安楽試薬を、本当に死にたい人間に配ってやる。


 高橋はすぐさま、自分の住所に近い人間たちをリストアップし始めた。


 今まで、闇の入り口で彷徨っていた心。

 揺らいでいた高橋の心は、ゆっくりと、闇の深いところへ沈んでいった。


 


 第一のターゲットと会う日が、三日後に決まった。


 もう、組織の連中は安楽試薬がなくなったことに気づいているだろう。

 高橋は自宅アパートにいても、一時も心が休まらなかった。


 無性に、誰かに会いたくなった。


 ——誰に……?


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