第7話ー③ 十倍の影
段ボールを抱えると、パソコンのシャットダウンを待つ間もなく、部屋の明かりを切り、鍵を閉め、引き出しに鍵束を突っ込んだ。
段ボールを体で隠すようにして、慎重に扉を開ける。
下では市川が、気怠そうにバイクにもたれかかり、缶コーヒーを飲んでいた。俺を待つ間に買ったのだろう。
市川に気づかれないよう、段ボールを扉横の踊り場にそっと置いた。下からは見えないはずだ。
呪われた館に封印をかけるような思いで、カチャリと扉の鍵を回す。
階段を下り、市川に鍵を返した。
「ずいぶんかかりましたね。忘れ物、ありました?」
「すいません……探したんですけど……なかったですね。僕の気のせいだったみたいです。それに途中でトイレも借りたんで……」
「それで遅かったんですね。……なんか、えらく汗かいてますね。こんなに涼しいのに。それに……軍手?」
高橋は自分の手を見て、目を閉じたくなった。
軍手を外すのを忘れている。
冬ならともかく、この真夏に軍手。何か作業をしていない限り、変な趣味という域を超えている。
「あっ……えーと……」
言葉が出てこない。頭が真っ白になる。
辻褄を合わせようがなかった。
市川は黙ってこちらを見続ける。
二人の間に、数秒の沈黙が生まれた。
——やばい。気づかれたか?
こうなったら、素直に薬を盗み出したことを打ち明けて、警察に届けるつもりだったと言ってごまかすしか……。
そのとき、市川がハッと何かに気づいたように言った。
「夏に手袋なんて、高橋さんって、よっぽど寒がりなんですね」
そう言って、クスクスと笑った。
思わぬ反応に、高橋はあっけにとられ、苦笑いを返すことしかできなかった。
——助かった。
市川が天然で良かった。
その後、市川を自宅近くまで送り届け、高橋はすぐさま治験事務所へ自転車を走らせた。
事務所の前に着き、外階段の上を見上げる。
「あっ……」
思わず声が漏れた。
どうして気づかなかったのだろう。
今、高橋が立っている位置と向きは、ちょうどさっき市川が立っていた場所と同じだった。
市川が天然だとばかり思って安心した、あの言葉。
——もしかして。
彼女は、俺のやったことに気づいていて、あんな発言を……?
もしそうなら、市川は俺の行動をどう捉えたのだろうか。
だが今となっては、それを確かめる術はない。
——もう、ゲームは進み出したのだ。
事務所隣のアパートに設置された街灯が、階段に置いた段ボールを斜めから照らしていた。
影が、元の大きさの十倍ほどにも膨れ上がって見える。
アパートに帰るとすぐ、今ではワープロとしても使っていないボロボロのパソコンに、盗み出したフロッピーを挿入した。
リーチ・コバネート薬は、黒だった。
——安楽試薬だった。
顧客名簿には、何百という名前が並んでいる。
住所、勤務先、年収、そして——この薬を契約する理由。
不思議なことに、年収の幅は様々だった。
何億という金持ちから、収入ゼロの者までいる。
ビジネスなら、金持ちばかりが並んでいそうなものだが……。
そして、最も高橋の目を引いたのが、安楽死の理由だった。
病気。
死亡保険金目的。
自殺志願。
……じさつしがん。
この組織は、俺がやろうとしていることを、ビジネスにしようとしている。
ならば——
俺は無償のボランティアで、この究極の安楽試薬を、本当に死にたい人間に配ってやる。
高橋はすぐさま、自分の住所に近い人間たちをリストアップし始めた。
今まで、闇の入り口で彷徨っていた心。
揺らいでいた高橋の心は、ゆっくりと、闇の深いところへ沈んでいった。
第一のターゲットと会う日が、三日後に決まった。
もう、組織の連中は安楽試薬がなくなったことに気づいているだろう。
高橋は自宅アパートにいても、一時も心が休まらなかった。
無性に、誰かに会いたくなった。
——誰に……?




