第7話ー② 契約に届く
3畳ほどの狭いスペースは、パソコンと壁際に薄い本棚がある以外、何も見当たらなかった。
高橋は部屋に窓がないことを確かめると、手元にあった照明のスイッチを押した。明かりをつけると、部屋はさらに縮まって見えた。
——ない。
市川が言っていた段ボールは、どこにも見当たらない。
高橋は地団駄を踏み殺すように、足の指先に力を入れた。
ないじゃないか……。
どこかに移されたのか?
いや、少し冷静になれ。これはすべて、市川から聞いただけの話じゃないか。あのヘボ看護婦の話を、まともに受けた俺がバカだったんだ。
怒り半分と、安堵半分。
その二つが、胸の奥から同時にこみ上がってくるのが分かった。足の親指に入れていた力が、ふにゃりと砕ける。
——バカなマネは、これで終わりだ。
そう心の声が叫んだ、その瞬間だった。
その場でへなへなと座り込んだ高橋の視界に、それは映った。
パソコンを置いた机の下。立っているときは椅子に隠れて見えなかったが、奥に一つ、段ボール箱が押し込まれていた。
高橋は、息をするのも忘れて凍りついた。
心臓だけが、バクバクと音を立てている。
恐る恐る近づく。
段ボールには、小さなネーム用シールが貼られていた。
『リーチ・コバネート薬』
……リーチ・コバネート。
これが、あの薬の名前なのだろうか。
周囲を見回したが、他に段ボールはない。
安堵と緊張。そのジェットコースターのような落差に、高橋はゼーゼーと荒い息を吐き出した。堰を切ったように、冷たい汗が額からポタポタと落ちる。
携帯を見る。
もう、5分が経とうとしていた。
どうする?
段ボールを開けるか?
だが、開けたところで、これが本当に“あの薬”なのか確認する術はない。
高橋の頭は、知らず知らずのうちに最後の逃げ道を探していた。
ふと、上のパソコンを見上げる。
……これに、何か情報が入っているかもしれない。
震える指先で、電源スイッチを押した。
起動画面が表示され、ハードディスクがカチャカチャと音を立てる。高橋は立ち上がり、目を見開いたまま、それを待った。
――パスワードを入力してください――
画面中央に、小さなウインドウが現れた。
部外者の侵入を拒む、無機質な一文。
パスワード……くそっ。
時間がない。
高橋は、思いつくままにキーボードを叩いた。
――OMORI
――〈OMORI〉
――HORIKOSHI
まさかと思い、市川の名前も打ち込む。
どれも反応しない。
誰かのフルネームか?
それなら、もうお手上げだ。
それか……この薬の開発者の名前……。
そういえば、市川がその人物について何か言っていたような……。
しまった。名前を聞いておくべきだった。
今さら後悔しても始まらない。
高橋は、深いため息を漏らした。
汗は止まらず、額から吹き出し、キーボードの溝に落ちる。暑いわけじゃない。ただ、体中の血管が拡張しているのが分かる。
時計を見る。
もうすぐ、7分が経つ。
作戦は失敗だ。
すぐ引き返そう。
……いや。段ボールだけでも持ち帰るか。
頭の中で、瀬戸際の攻防が繰り返される。
高橋は、もう一度段ボールを見た。
リーチ・コバネート薬。
この治験は、この薬を作るために行われているのか?
そう考えた瞬間、勝手に指が動いた。
リーチ……届く。
コバネート……聞いたことがない。
それに近い単語は……
COVENANT……カバナント……契約。
コバネート、と読めなくもない。
契約に届く。
契約に達する。
reach・covenant――
その文字列を叩いた瞬間、ロックが解除された。
……契約。
この安楽死薬が、あらかじめ“契約された人間”のために作られたものだとしたら……。
俺と同じことを考えている人間が、他にもいる。
高橋は、堀越や大森の背後に、もっと大きな組織の影を感じ、背筋がゾッとした。
——ハッ。
我に返る。
時間がない。
いつ市川が二階に上がってきても、おかしくなかった。
今の高橋を動かしているのは意志ではない。切迫した時間、それだけだった。
デスクトップに貼られたリンクに目を走らせる。
幸い、画面上部に《リーチ・コバネート薬について》というファイルがあった。
だが、目を通している余裕はない。
高橋は机の上に置かれたフロッピーディスクの中から、あまり使われていなさそうな一枚を取り、ドライブに押し込んだ。
これをコピーして……。
……待てよ。
契約者の名簿も、このパソコンのどこかにあるはずだ。
検索欄に〈名簿〉と打ち込む。
表示されたのは《顧客名簿一覧》。
——これか。
中身を確認する時間はない。
高橋は二つのファイルを選択し、フロッピーへコピーした。
今にも、市川の足音が階段から聞こえてきそうな気がしていた。




