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快速四号  作者: ヤーツツ・トモミ
発車前
25/45

第7話ー② 契約に届く

3畳ほどの狭いスペースは、パソコンと壁際に薄い本棚がある以外、何も見当たらなかった。

 高橋は部屋に窓がないことを確かめると、手元にあった照明のスイッチを押した。明かりをつけると、部屋はさらに縮まって見えた。


 ——ない。


 市川が言っていた段ボールは、どこにも見当たらない。

 高橋は地団駄を踏み殺すように、足の指先に力を入れた。


 ないじゃないか……。

 どこかに移されたのか?


 いや、少し冷静になれ。これはすべて、市川から聞いただけの話じゃないか。あのヘボ看護婦の話を、まともに受けた俺がバカだったんだ。


 怒り半分と、安堵半分。

 その二つが、胸の奥から同時にこみ上がってくるのが分かった。足の親指に入れていた力が、ふにゃりと砕ける。


 ——バカなマネは、これで終わりだ。


 そう心の声が叫んだ、その瞬間だった。


 その場でへなへなと座り込んだ高橋の視界に、それは映った。


 パソコンを置いた机の下。立っているときは椅子に隠れて見えなかったが、奥に一つ、段ボール箱が押し込まれていた。


 高橋は、息をするのも忘れて凍りついた。

 心臓だけが、バクバクと音を立てている。


 恐る恐る近づく。

 段ボールには、小さなネーム用シールが貼られていた。


『リーチ・コバネート薬』


 ……リーチ・コバネート。

 これが、あの薬の名前なのだろうか。


 周囲を見回したが、他に段ボールはない。

 安堵と緊張。そのジェットコースターのような落差に、高橋はゼーゼーと荒い息を吐き出した。堰を切ったように、冷たい汗が額からポタポタと落ちる。


 携帯を見る。

 もう、5分が経とうとしていた。


 どうする?

 段ボールを開けるか?


 だが、開けたところで、これが本当に“あの薬”なのか確認する術はない。

 高橋の頭は、知らず知らずのうちに最後の逃げ道を探していた。


 ふと、上のパソコンを見上げる。


 ……これに、何か情報が入っているかもしれない。


 震える指先で、電源スイッチを押した。

 起動画面が表示され、ハードディスクがカチャカチャと音を立てる。高橋は立ち上がり、目を見開いたまま、それを待った。


――パスワードを入力してください――


 画面中央に、小さなウインドウが現れた。

 部外者の侵入を拒む、無機質な一文。


 パスワード……くそっ。

 時間がない。


 高橋は、思いつくままにキーボードを叩いた。


――OMORI

――〈OMORI〉

――HORIKOSHI


 まさかと思い、市川の名前も打ち込む。

 どれも反応しない。


 誰かのフルネームか?

 それなら、もうお手上げだ。


 それか……この薬の開発者の名前……。

 そういえば、市川がその人物について何か言っていたような……。


 しまった。名前を聞いておくべきだった。

 今さら後悔しても始まらない。


 高橋は、深いため息を漏らした。

 汗は止まらず、額から吹き出し、キーボードの溝に落ちる。暑いわけじゃない。ただ、体中の血管が拡張しているのが分かる。


 時計を見る。

 もうすぐ、7分が経つ。


 作戦は失敗だ。

 すぐ引き返そう。


 ……いや。段ボールだけでも持ち帰るか。


 頭の中で、瀬戸際の攻防が繰り返される。


 高橋は、もう一度段ボールを見た。


 リーチ・コバネート薬。


 この治験は、この薬を作るために行われているのか?

 そう考えた瞬間、勝手に指が動いた。


 リーチ……届く。

 コバネート……聞いたことがない。


 それに近い単語は……

 COVENANT……カバナント……契約。


 コバネート、と読めなくもない。

 契約に届く。

 契約に達する。


 reach・covenant――


 その文字列を叩いた瞬間、ロックが解除された。


 ……契約。


 この安楽死薬が、あらかじめ“契約された人間”のために作られたものだとしたら……。

 俺と同じことを考えている人間が、他にもいる。


 高橋は、堀越や大森の背後に、もっと大きな組織の影を感じ、背筋がゾッとした。


 ——ハッ。


 我に返る。

 時間がない。


 いつ市川が二階に上がってきても、おかしくなかった。

 今の高橋を動かしているのは意志ではない。切迫した時間、それだけだった。


 デスクトップに貼られたリンクに目を走らせる。

 幸い、画面上部に《リーチ・コバネート薬について》というファイルがあった。


 だが、目を通している余裕はない。


 高橋は机の上に置かれたフロッピーディスクの中から、あまり使われていなさそうな一枚を取り、ドライブに押し込んだ。


 これをコピーして……。


 ……待てよ。


 契約者の名簿も、このパソコンのどこかにあるはずだ。


 検索欄に〈名簿〉と打ち込む。

 表示されたのは《顧客名簿一覧》。


 ——これか。


 中身を確認する時間はない。

 高橋は二つのファイルを選択し、フロッピーへコピーした。


 今にも、市川の足音が階段から聞こえてきそうな気がしていた。

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