第7話ー① 大橋の手前
市街地の東端を流れる一級河川を越える大橋まで歩いてきた。ターミナル駅から、ゆっくり休み休み歩いてきたので、一時間半ほど経っていた。
市川はまだ少しふらついていたが、幾分酔いも醒めた様子だった。
「今日はありがとうございました。被験者の高橋さんに、こんな話をしてしまって本当に申し訳なかったって思ってます。でも、おかげで何だか勇気が出ました。もう酔いもかなり醒めたので、あとは一人でも帰れます」
高橋に心地よい笑顔を残し、市川は立ち去ろうとしていた。治験事務所は、この橋を渡り切ってすぐのところにある。
今、この瞬間が、すべての決断の時だった。
覚悟は決めた。もう迷うことはないはずだ。
「市川さん、ちょっと待って下さい」
振り向いた市川の顔に、少し曇りができたのが分かった。
自分がいかに険しい顔をしていたのか——市川の反応を通して、高橋自身にも見えるようだった。
真夜中の治験事務所は、街灯に面した壁だけが白く反射し、不気味なオーラを醸し出していた。
しかし、ここに妖怪も化け物も存在しない。あるのは、ただの薬。俺の心の闇に答えてくれる、究極の安楽死薬……。それを今、俺は掴みかけている。
恐れることはない。
俺が恐れるのは死への恐怖ではなく、死までの苦痛に対する恐怖だ……。
市川と並ぶように、暗闇の中、わずかに見える二階への外階段を慎重に上がる。
高橋は、自分の足が思うように動かないほど、ひどく震えていることに気づいた。
当たり前かもしれない。これからやろうとしているのは犯罪だ。しかも、今までの人生で、自分ひとりでリスクを背負って何かをしたことなどなかった。
これから俺は、家族や知人はおろか、社会からも自分を切り離していく。そして最終的に、自分からも切り離す。
これほどの思いをして、結果、俺には何も残らない。
俺は今から、何を得に行こうとしているのか。
本当の自由?
生まれたと同時に切り離されたもの?
決して振り返って見てはいけないもの……。
許してくれ。もう俺は疲れたんだよ。
市川が携帯のライトを使い、二階入口の鍵をガチャリと回した。
市川には、治験事務所に忘れ物をしたと言ってある。手早く済ませなければならない。
「市川さんは下で待ってて下さい。僕が鍵を閉めて下りますんで。すぐ戻ってきます」
市川は何ら疑うことなく、高橋に鍵を渡した。市川が階段を下りるのを確認して、高橋は扉を閉めた。
引き延ばせても十分。
一気に血の気が引く。やるしかない。
あらかじめ用意しておいた軍手をはめる。いずれバレるにしても、少しでも時間を稼いでおく必要がある。
念を押して部屋の電気はつけず、携帯のライトだけで動く。
二階奥の部屋の鍵は、高橋が目撃した通り、診察机の二段目の引き出しに入っていた。セキュリティの甘さに感謝する。
(……試験薬は、治験事務所のどこにあるんですか?)
(2Fの奥に、堀越さんが運んでたと思いますが……なぜそんなこと聞くんですか?)
(もし警察に通報する場合、試作品の場所が曖昧だと情報に欠けると思ったので……)
市川は本当に警察に通報するだろうか。もしそうなったなら、奴らが捕まるのが先か? 俺が先か?
頭は少し先の行く末を案じながらも、手先はするすると動いていく。見えない力が体を動かしているようだった。
この極限の緊迫が、そうさせているのだろうか。
鍵束から一つずつ、慎重に奥の部屋の鍵穴へ挿していく。
そのうちの一つが——ガチャリと噛み合った。




