第6話ー③ 風と体温
店の外に出ると、路地を通り抜ける車の排気ガスを含んだ生ぬるい風が高橋の体を包んだ。夜露を含んだ水気の多い空気のせいなのか、かなり遠方を行き交う人々の熱気や体臭までが鼻の中に混じってくる。
市川はもはや高橋の支えなしでは歩けないほどの泥酔状態で、高橋にもたれかかりながら、肩にかけたバッグを振り回している。路肩すれすれを、オープンジープラングラーが派手なラップ系の音楽を大音量で流しながらノロノロと走っていた。市川はそれに向かって「バカヤロー」と叫んだ。幸い音楽の方が大きかったのか、ジープはそのまま走り去っていった。
十五分ほどかけて、ようやくターミナル駅に戻ってきた。ウニの周りのコンクリートの囲いに市川は腰掛け、気持ち悪そうに上体を屈めている。高橋は駅構内のコンビニでミネラルウォーターを買い、市川に渡した。市川はそれをぐぐっと口に含み、代わりに深いため息を吐き出した。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとう……」
聞くと彼女は原付でここまで来ているという。もちろん、この状態で運転できるはずもない。とりあえず地下の駐輪場が一時に閉まるというので急いでそれを一緒に取りに行き、高橋もウニの近くに駐めていた自分の自転車を押して、市川と合流した。
市川は一人で帰れると言い張ってスクーターに乗ろうとするが、やはりこの状態では引き留めるほかなかった。それに高橋は、このまま市川に帰られるわけにもいかなかった。
「とりあえず、しばらく家の方向に向かって歩きましょうよ」
市川は最初渋っていたが、やはり不安になったのだろう。高橋の提案を受け入れ、横でフラフラとハンドルを揺らしながら付いてくる。市川の家は治験事務所をさらに北へ進んだ郊外の市営団地にあるらしかった。彼女の家が治験事務所と反対方向ならどうしようかと思ったが、ちょうど同じ方向だった。
二人は新幹線高架下の狭い歩道をてくてくと歩く。横の山陽本線を、長い長い貨物列車がターミナル駅に向かってスピードを落としながら、ゴンゴンと鉄路を踏みつけて入ってくる。まばらに積まれたコンテナの隙間から、線路によって隔てられた市街地の西部が、コマ送りの静止画のように途切れ途切れに映っては消える。
ターミナル駅を出て五分も歩くと人混みも絶えた。まるで空気のバリアから外れたみたいに、暖かい空気がひやりとしたものに変わり、Tシャツの中に入り込んで肌を刺した。
「高橋さんって、真面目なんですね……」
市川がふらふらしながら高橋の方を見やる。
「えっ……」
脈絡のない言葉に、思わず高橋も市川の方を振り返る。
「だって……普通、女性がこんな状態だったら、どっか休んでくとか誘いそうなものに……」
「いや、俺は……」
確かに普通はそうなのかもしれない。ただ高橋には、それは遠いドラマの世界の出来事でしかありえなかった。同年代の市川が言うように、皆そういった駆け引きをしながら世の中を謳歌しているのだろうか。皆はいつ、そんなに大人になったのだろう。――そして俺は、いつからその成長を疎ましく感じるようになったのだろうか。
「俺は……単に……その……女の口説き方を知らないだけなんですよ……」
高橋はガラにもなく、本音をそのまま口に出した。相手は酩酊しているし、何を言っても覚えていないだろう。それに、この女ともう会う機会もない。そんな気持ちが働いたのかもしれなかった。
「へー。でも……それって、ある意味素敵なんじゃないですか?純粋っていうか?女性を大切にしてる感じが……」
市川があまりにも高橋を持ち上げるので、もしかして誘っているのかと一瞬思ったが、市川も高橋と同じように、思ったことをそのまま口にしているだけのようだった。
「私も今年で二十二になるし、それなりに色々あったけど……高橋さんみたいな純粋な人には巡り会えなかったな……。死んだ母さんが、男を見る目だけはつけろって言ってたけど……まさかこんなことになるとはね……」
「こんなことって?」
「堀越さんから聞いたんですけど……大森さんが私を看護婦として採用したのって、私のことがタイプだったかららしいんですよ。でも、そんなの気をつけようがないですよね~」
市川はそう言って苦笑いした。
「へ~、あの先生がね~」
U字ヘアーのキャラクターには、そのセクハラ行為はまあ似合っていると言えた。
「あーあ、本当、訳わかんない……どうして私ばっかりこんな目に……。ついこの間、母さんを亡くしたばっかりだっていうのに……」
市川はやけくそのように、歩道脇に立つ街灯のポールに、肩にかけたバッグを振り回してぶつけた。鞄の金具が当たり、カーンと乾いた音を立てる。
市川のお母さんの話は、さっきの居酒屋でちらっと聞いた。彼女にとって母親は、とても大切な存在だったのだろう。そしてその存在を失っても、母のような病気の人を助けるんだという意志を持ち、逆にその意志によって、何とか母を亡くした辛い気持ちを奮い立たせてきたのかもしれない。そんな市川にとって、今回の出来事がどれほどショックだったのかは、俺みたいな人間にも理解できた。
マスコミ風に言えば、「過酷な運命を懸命に生きる少女」とでもするのだろうか。




