第5話ー④ 昼食と沈黙
時計の針は、もうすぐ十二時を指そうとしていた。
考えすぎて体力を使ったのか、市川はひどい空腹を感じた。近くのコンビニで何か買ってこようと立ち上がった、その時だった。
高橋が眠りから覚め、上体を起こした。
「あっ、高橋さん。目が覚めたんですね……」
「ええ……いつ眠ってしまったのかも、覚えていないんですけどね……」
目の前には市川ひとりだけだった。
いつもいるはずの堀越の姿がない。
「あれ、堀越さんは……?」
「堀越さんは……ええと……他に用事があって、出て行かれました」
「今日は治験、行わないんですかね? いつもこの時間くらいになると、その日の治験が始まるんですが……」
そう言って、高橋は壁の時計を指さした。
「さあ……今日は……ないんじゃないですかね。治験最終日でもありますし、最後は休養日、ってことじゃ……」
市川は、この治験についてあまり詳しい内容を知らされていないらしい。
まあ、あの注射の腕前からしても、重要視されていないのは分かるが……。
「私、これから昼食を買いに行こうと思ってたんですが……高橋さん、お腹すいてます?」
「ええ……少し……」
「確か……治験用の食事が、今日の分まであったはず……ええと、堀越さん、鍵をどこに……」
市川は診察室の棚の引き出しを開け、鍵束を取り出すと、トイレ横の扉をガチャリと開けて中へ入っていった。
高橋は、その様子をぼんやりと眺めていた。
治験用のパックに入った弁当は、とても「おいしい」と呼べるものではなかった。
正常な状態で治験を行うため、栄養バランスはきっちり考えられているのだろうが、どれも味付けが薄く、ひどく味気ない。
市川は隣で、どこかで買ってきた弁当を食べている。
堀越といる時とは違い、市川との二人きりの沈黙は、どこか息苦しい。
勝手にこちらが意識しているだけだろうか。
市川の方も、特に何をするでもなく、窓の外を見たり、時計を見たりと、落ち着かない様子だ。
高橋は、たまらず声をかけた。
「市川さん、俺のことなら気にしないで、何か他の仕事でもしててくださいよ……」
「……大丈夫ですよ。高橋さんの容体をチェックするのが、私の仕事ですから……」
「俺の容体、どこか悪いんですか?」
何気なく聞いたつもりだった。
しかし市川は、少しばつの悪そうな顔をし、沈黙が流れた。
(この人、顔に出やすいな……)
「い、いえ……そういうわけじゃなくて……。ほら、治験では最終日に必ず体調チェックをしますし……だから、何も……」
高橋は、大学病院に移されたことに、ずっと違和感を覚えていた。
そうだ。昨晩、病室で聞いた頭上の会話。
思い出す。
市川は、この二、三日、治験事務所に姿を見せていなかった。
そして大学病院に現れた時の、あの青ざめた顔。
高橋は、ある仮説を立て、市川に尋ねた。
「市川さん……俺、聞いちゃったんですよ。
大学病院の、俺の病室で……。治験中に何かトラブルがあった、って話……。
あれ、俺のことですよね……?」
市川の顔色が、みるみる青くなっていく。
「話してたのは……一人は聞いたことのない声で……もう一人は、多分、大森医師……。
で、原因は……あなたが、何かミスを……」
「違います……!」
市川は思わず声を荒げた。
「ミスをしたのは、私なんかじゃ……」
言った瞬間、その言葉が、逆にすべてを肯定してしまったことに気づき、市川はひどくうろたえた。
「少し……そのことについて聞きたいんですが……」
高橋は、動揺する市川をまっすぐ見つめ、静かにそう言った。
⸻
日が落ちかけた十九時過ぎ、堀越が治験事務所に戻ってきた。
「いや、高橋さん……最終日だというのに、遅くなってしまってすみません」
堀越は市川の側に寄り、何か小声で話していた。
——多分、俺の容体について聞いているんだろう。
堀越は市川の言葉に何度か頷くと、こちらを向いた。
「高橋さん、念のため最後に身体チェックを行います。
まあ、すぐ終わりますので」
最初の面接の時と同じように、尿検査、血液検査、脈拍のチェック。
一通り終え、ようやく解放された。
「何か体調が優れない場合は、またこちらに来て頂くか、連絡を下さい。
治験協力費は、後日、口座に振り込ませて頂きますので……」
堀越は最後まで営業スマイルを崩さなかった。
横の市川を見ると、相変わらず沈んだ表情をしている。
——もっとも……これからやることを考えれば、俺はもう、ここに来ることはないだろう。
……いや、もう一度だけ必要か。
二階から一階へ、錆びた外階段をキイキイと鳴らしながら下りると、高橋は久しぶりに自由の身になった実感を覚えた。
自転車をどこに停めたか、しばらく探すことになったが、辺りはすでに、闇の世界が急速に広がりつつあった。




