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快速四号  作者: ヤーツツ・トモミ
発車前
18/45

第5話ー③ 倉庫の灰皿

高橋を治験事務所に運び入れた後、堀越と市川の二人は一階の事務室へ降りてきていた。やはり昨日の影響もあるのだろう、高橋はベッドに移されてしばらくすると、すぐに眠ってしまった。


 高橋が最初に面接を受けた場所でもある事務室の奥には、もう一部屋あり、そこは倉庫部屋になっていた。

 倉庫部屋には、うずたかく積まれた段ボールとファイルの山。十畳ほどのスペースの半分以上が、それで埋め尽くされている。その一角に、粗末に置かれた三つ足の椅子が二脚あった。


 堀越はその一つに腰を下ろし、市川にも座るよう促した。


「君は、ここに入るのは初めてだったっけ?」


「いえ、前に一度……」


「そうか……。すごい資料の山だろ。二階のデータ管理室に入りきらないものは、全部ここに突っ込んでるからね……。まあ、五年もやってりゃ仕方ないけど……」


「この治験……五年もやってるんですか!?」


「ああ……俺も最初は、君と同じように何も知らされずに参加してね……。知ったのは二年前だ。やはりその時は、君みたいにかなりショックを受けたよ……」


「……やめようとは思わなかったんですか?」


 市川の言葉を遮るように、堀越は「ちょっとごめん」と言い、上着のポケットから煙草を取り出して火をつけた。


「……ここに来る前は、一応大手企業の経理マンだったんだ。その頃から結構吸っててね……。今は事務員とはいえ一応医薬関係だろ。あんまりおおっぴらに吸えなくてさ……。まあ悲しいかな、習慣ってなかなか変えられなくて……ここでひっそり吸ってるってわけだ」


 堀越の顔は、煙草がやめられないことよりも、過去を思い出して沈んでいるように見えた。


「どうして……前の会社を……?」


「まあ、このご時世によくある話さ……。リストラされてね。路頭に迷ってるところを、君と同じく大森さんにスカウトされた」


「大森さんは、どうして私なんかを……」


「ははっ……あの人は何も考えてないよ。単純に、君がタイプだったんじゃないの?……まあ、大森さんには気をつけたまえ」


「……堀越さん! やっぱり、こんな研究許されませんよ!

 今ならまだ間に合います。今すぐ田所さんに言って中止すべきです。今なら、被害者も加害者もいない。引き返せます!」


 堀越は、市川の言葉を少し遠い目をしながら、黙って聞いていた。

 やがて煙草をゆっくり咥え、大きく吸い、苦々しく煙を吐き出す。


「俺は……やめるわけにはいかないんだ。妻子がいる身でね。今やめたら、一家が路頭に迷う。それに……かなり人道に外れた研究だとは思うが、今は少し、田所さんの気持ちも分かる気がするんだ……」


 堀越は、スタンド型の灰皿に灰を落としながら、遠い目のまま呟いた。


「……私には、全然分からない。分かりたくもない。人殺しの薬の開発なんて」


「少なくとも、あの人はあの人なりの考えを持ってやっているとは思う」


「田所さん、ビジネスじゃないって言ってましたけど……やっぱりお金儲けなんじゃないですか?」


「まあ、これだけの実験だ。それなりの金は動いてるだろう。大学病院も、そういう考えで協力してるんだと俺も思う。……だが、あの人が君に言ったことは、本当なんじゃないかな。

『私には私の信念がある。決して金儲けが目的じゃない』って……」


「……どうして田所さん、こんなことを始めようと思ったんだろう……」


「さあね……それは俺にも分からん。あの人にも、昔いろいろあったのかもしれないな。前にいた製薬会社をクビになってまで、こんな実験を続けてるんだから……」


「……私は、やっぱりここは辞めます。

 田所さんの考えがどうであれ、こんな実験は許されない。ましてや、協力するなんて……」


 堀越はしばらく俯いたまま、黙っていた。

 ——これだけの秘密を共有している人間に、簡単に辞められていいはずがない。

 田所が自分に念を押したのも、きっとそういう意味だったのだろう。


「君……これだけの秘密を知ってる人間が、簡単に辞められると思っているの?」


「わ、私を脅してるんですか……? そんなことをしても、私は……」


 市川は今にも泣き出しそうな顔になった。

 堀越は、自分の言葉があまりにも悪役じみていたことに、内心で苦笑した。


「そんなつもりじゃない。ただ……俺だったら、そうするだろうなと思っただけだ。

 自分の、ある意味すべてが懸かっているんだから……決して辞めさせないか、もしくは……」


「……口封じ……」


 市川は、必死に涙をこらえた充血した目で堀越を睨んだ。


 ——俺は、田所のすべてを知っているわけじゃない。

 むしろ、ほとんど何も知らない。

 俺も最初は、ただ自分の生活を守るため、それだけでやってきた。

 悪いことだと分かっていながら……。


 だが、いつからだろう。

 この治験に、ついていこうと思えるようになったのは。

 それは——あの人の心に、嘘がないと分かった時だ。


「俺は……田所さんは、君がもし辞めても、脅すようなことはしないと思う。

 確信があるわけじゃないが……」


「どうして、そんなことが分かるんですか!」


 市川は感情が高ぶり、語尾がヒステリックになる。


「あの人は、自分なりの正義のためにやっている。だから、何があっても君に手を上げることはないと思う。

 そういう覚悟で、君に話したんだと思うし……そうなった時の自分の始末も、すでに考えているはずだ。

 ……だからこそ、もう少し続けてもらえないか。いや、辞めてもいい。秘密さえ守ってくれれば……。

 あと二ヶ月もすれば、一応の完成薬ができる。せめて、それまで……」


 市川は黙って聞いていたが、表情はまだ晴れなかった。


「少し……考えさせてください。正直、頭が混乱していて……」


「ああ……納得するまで考えればいい。ただ、それまでは約束を守ってくれるね?」


「……ええ」


 市川は、ようやく小さく頷いた。


「えーと……こんな話の後で悪いんだが……これは純粋に看護師としての仕事だ。

 高橋さんのことなんだが、俺はこの後、田所さんと打ち合わせがあってね。

 代わりに、横で高橋さんを看ててくれないか。

 一応、今日で契約は終わりだが、容体は回復したとはいえ、大事を取ったほうがいい。

 何かあったら、すぐ連絡してくれればいいから」


「……分かりました。それくらいなら……」


「今日の晩には戻る。頼むよ」


 堀越はそう言い残し、忙しそうに治験事務所を後にした。


 市川は二階の、高橋が眠る診察室へ戻った。

 何だか、うまくはぐらかされたような気がする。誰にも相談できない。

 ひとり取り残されたような、妙な孤独が胸に広がった。


 ——堀越さんは、私のためを思って話してくれたのだろうか。

 でも、どちらにせよ納得なんてできるはずがない。

 人殺しの薬の開発だなんて……。


 市川は高橋のベッドの脇に座り、ひとり、もんもんと考えを巡らせていた。


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