第5話ー③ 倉庫の灰皿
高橋を治験事務所に運び入れた後、堀越と市川の二人は一階の事務室へ降りてきていた。やはり昨日の影響もあるのだろう、高橋はベッドに移されてしばらくすると、すぐに眠ってしまった。
高橋が最初に面接を受けた場所でもある事務室の奥には、もう一部屋あり、そこは倉庫部屋になっていた。
倉庫部屋には、うずたかく積まれた段ボールとファイルの山。十畳ほどのスペースの半分以上が、それで埋め尽くされている。その一角に、粗末に置かれた三つ足の椅子が二脚あった。
堀越はその一つに腰を下ろし、市川にも座るよう促した。
「君は、ここに入るのは初めてだったっけ?」
「いえ、前に一度……」
「そうか……。すごい資料の山だろ。二階のデータ管理室に入りきらないものは、全部ここに突っ込んでるからね……。まあ、五年もやってりゃ仕方ないけど……」
「この治験……五年もやってるんですか!?」
「ああ……俺も最初は、君と同じように何も知らされずに参加してね……。知ったのは二年前だ。やはりその時は、君みたいにかなりショックを受けたよ……」
「……やめようとは思わなかったんですか?」
市川の言葉を遮るように、堀越は「ちょっとごめん」と言い、上着のポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「……ここに来る前は、一応大手企業の経理マンだったんだ。その頃から結構吸っててね……。今は事務員とはいえ一応医薬関係だろ。あんまりおおっぴらに吸えなくてさ……。まあ悲しいかな、習慣ってなかなか変えられなくて……ここでひっそり吸ってるってわけだ」
堀越の顔は、煙草がやめられないことよりも、過去を思い出して沈んでいるように見えた。
「どうして……前の会社を……?」
「まあ、このご時世によくある話さ……。リストラされてね。路頭に迷ってるところを、君と同じく大森さんにスカウトされた」
「大森さんは、どうして私なんかを……」
「ははっ……あの人は何も考えてないよ。単純に、君がタイプだったんじゃないの?……まあ、大森さんには気をつけたまえ」
「……堀越さん! やっぱり、こんな研究許されませんよ!
今ならまだ間に合います。今すぐ田所さんに言って中止すべきです。今なら、被害者も加害者もいない。引き返せます!」
堀越は、市川の言葉を少し遠い目をしながら、黙って聞いていた。
やがて煙草をゆっくり咥え、大きく吸い、苦々しく煙を吐き出す。
「俺は……やめるわけにはいかないんだ。妻子がいる身でね。今やめたら、一家が路頭に迷う。それに……かなり人道に外れた研究だとは思うが、今は少し、田所さんの気持ちも分かる気がするんだ……」
堀越は、スタンド型の灰皿に灰を落としながら、遠い目のまま呟いた。
「……私には、全然分からない。分かりたくもない。人殺しの薬の開発なんて」
「少なくとも、あの人はあの人なりの考えを持ってやっているとは思う」
「田所さん、ビジネスじゃないって言ってましたけど……やっぱりお金儲けなんじゃないですか?」
「まあ、これだけの実験だ。それなりの金は動いてるだろう。大学病院も、そういう考えで協力してるんだと俺も思う。……だが、あの人が君に言ったことは、本当なんじゃないかな。
『私には私の信念がある。決して金儲けが目的じゃない』って……」
「……どうして田所さん、こんなことを始めようと思ったんだろう……」
「さあね……それは俺にも分からん。あの人にも、昔いろいろあったのかもしれないな。前にいた製薬会社をクビになってまで、こんな実験を続けてるんだから……」
「……私は、やっぱりここは辞めます。
田所さんの考えがどうであれ、こんな実験は許されない。ましてや、協力するなんて……」
堀越はしばらく俯いたまま、黙っていた。
——これだけの秘密を共有している人間に、簡単に辞められていいはずがない。
田所が自分に念を押したのも、きっとそういう意味だったのだろう。
「君……これだけの秘密を知ってる人間が、簡単に辞められると思っているの?」
「わ、私を脅してるんですか……? そんなことをしても、私は……」
市川は今にも泣き出しそうな顔になった。
堀越は、自分の言葉があまりにも悪役じみていたことに、内心で苦笑した。
「そんなつもりじゃない。ただ……俺だったら、そうするだろうなと思っただけだ。
自分の、ある意味すべてが懸かっているんだから……決して辞めさせないか、もしくは……」
「……口封じ……」
市川は、必死に涙をこらえた充血した目で堀越を睨んだ。
——俺は、田所のすべてを知っているわけじゃない。
むしろ、ほとんど何も知らない。
俺も最初は、ただ自分の生活を守るため、それだけでやってきた。
悪いことだと分かっていながら……。
だが、いつからだろう。
この治験に、ついていこうと思えるようになったのは。
それは——あの人の心に、嘘がないと分かった時だ。
「俺は……田所さんは、君がもし辞めても、脅すようなことはしないと思う。
確信があるわけじゃないが……」
「どうして、そんなことが分かるんですか!」
市川は感情が高ぶり、語尾がヒステリックになる。
「あの人は、自分なりの正義のためにやっている。だから、何があっても君に手を上げることはないと思う。
そういう覚悟で、君に話したんだと思うし……そうなった時の自分の始末も、すでに考えているはずだ。
……だからこそ、もう少し続けてもらえないか。いや、辞めてもいい。秘密さえ守ってくれれば……。
あと二ヶ月もすれば、一応の完成薬ができる。せめて、それまで……」
市川は黙って聞いていたが、表情はまだ晴れなかった。
「少し……考えさせてください。正直、頭が混乱していて……」
「ああ……納得するまで考えればいい。ただ、それまでは約束を守ってくれるね?」
「……ええ」
市川は、ようやく小さく頷いた。
「えーと……こんな話の後で悪いんだが……これは純粋に看護師としての仕事だ。
高橋さんのことなんだが、俺はこの後、田所さんと打ち合わせがあってね。
代わりに、横で高橋さんを看ててくれないか。
一応、今日で契約は終わりだが、容体は回復したとはいえ、大事を取ったほうがいい。
何かあったら、すぐ連絡してくれればいいから」
「……分かりました。それくらいなら……」
「今日の晩には戻る。頼むよ」
堀越はそう言い残し、忙しそうに治験事務所を後にした。
市川は二階の、高橋が眠る診察室へ戻った。
何だか、うまくはぐらかされたような気がする。誰にも相談できない。
ひとり取り残されたような、妙な孤独が胸に広がった。
——堀越さんは、私のためを思って話してくれたのだろうか。
でも、どちらにせよ納得なんてできるはずがない。
人殺しの薬の開発だなんて……。
市川は高橋のベッドの脇に座り、ひとり、もんもんと考えを巡らせていた。




