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快速四号  作者: ヤーツツ・トモミ
発車前
13/45

第4話ー① 研究棟六階

路面電車の終点ほど近く、市街地の端に位置する場所に、国立大学医学部に併設された大学病院がある。広い敷地の大半は広葉樹に囲まれ、その中に赤レンガの古めかしい建物や、最近増床した背の高いビルが点在していた。


 ……プル……プル……。

 堀越は病院内の駐車場に車を停め、携帯電話をかけた。


「あっ、もしもし……はい、堀越です……はい、近くに寄ったもので……はい、薬を受け取りに来ました……はい……はい、大丈夫ですか? はい、では」


 市川は横で、固まったように動かない。


「市川君、どうする? 一緒に来るかい? ここで待っていてもいいんだけど……」


 今、堀越さんが会う人が……。


「わ、私も行きます!」


「そう……分かった。くれぐれも、失礼のないようにね」


 堀越の目が、彼女に最後の確認をする。


「……はい、大丈夫です」


 


 どこまでも続く薄暗い廊下と、湿気を含んだ空気。真っ昼間だというのに外光は差し込まず、非常口の緑色の案内板だけが、ぼんやりと浮かび上がっている。

 昔の大学病院の中でも、最も初期に建てられた一画だった。建物は隈笹に覆われ、うっそうとしている。入口の扉を開けた瞬間、浦島太郎の玉手箱を思わせる、かび臭い霧が二人を迎えた。


 二人は人気のない廊下を、コツコツと足音を響かせながら進んでいく。突き当たっては階段を上る。だが階段は連続しておらず、廊下を行ったり来たりしながら、上へと進まねばならない。まるで迷路のようだった。


「こんなに複雑だと、患者さんも大変ですね」


 市川が堀越の後ろにつきながら、誰にともなく言った。


「ここは研究棟だから、患者が来ることはないんだよ」


 行けども行けども同じような風景が続き、市川はくらくらしてくる。外の空気を吸いたい。窓はなく、上階へ行くほど空気が薄くなり、胸がむせ返る。


「さあ、着いたよ」


 最上階――六階の突き当たりに、その部屋はあった。


【臨床薬研究室 室長 田所 正】


 扉の上部、十五センチほど切り取られた磨りガラスが、部屋の照明を受けて鈍く光っている。


 コンコン……。


「やあやあ……」


「先生、堀越です」


 ガラス同士が触れ合うような音がして、扉がぎいと開いた。


「はい、どうも。いや~、わざわざ出向いてきてもらうこともなかったのに」


「いえいえ……先生あっての大森病院ですから」


「ははは……大森“病院”ね……。それより、治験患者の様子はどう?」


「はい。今のところ、順調に進んでいます」


「頼みますよ。まだまだデータ不足ですからね~。ははは」


 


 窓のない室内は、剥き出しの蛍光灯が、かろうじて空間を照らしていた。十畳ほどの部屋の隅には光が届かず、影が四隅を切り取っている。

 研究室にありがちな、散らかった資料やファイルの山は見当たらず、それらは中央の実験机の横にある本棚に、整然と収められていた。だが、その整然さが、かえって部屋から感情を奪っているようにも見えた。


 市川は部屋に足を踏み入れた瞬間、強烈な刺激臭にたじろいだ。実験机の上では、十数本の試験管から流れ出た液体がチューブを伝い、隣の三角フラスコで反応している。さらにそこから枝分かれしたチューブの先では、時折、紫色の煙が立ち上っていた。

 換気扇は回っているが、処理しきれず、臭気は室内に漂っている。


「いや、今も実験中で手が離せなくてね……。そうでなければ、下まで降りて行けたんだが」


「いえ、こちらこそ……お忙しいところに来てしまって。研究の方、進んでいるようですね」


「うん? いや、まあね……。すべての工程を統合したサンプルは、もう出来ている。あとは治験データから、どれだけ“楽に”――という部分の精度を上げられるか、だね……」


 白衣をまとった人物は、話しながらも実験の手を休めない。

 堀越はそこから腕二本分ほど距離を取り、市川は堀越の背後に、半ば怯えるように身を寄せ、肩越しにその男を見ていた。


 三十代後半から四十代半ば。細身の長身で、頬骨の突き出た能面のような顔。丸眼鏡をかけ、そのレンズが、実験机のパソコンのモニター光を受けて、青白く反射している。


 男が手を止め、こちらを振り向いた。市川と目が合う。男は軽く首を傾け、堀越に問いかける仕草をした。


「ええ……うちで雇った看護師でして……」


「そう……」


 男はそう言うと、にこりと笑い、市川に手を差し出した。市川も反射的に、その手を握る。皮膚は擦り切れ、ひどくがさがさしていた。


「よろしく……。これで、今日から君も協力者だね」


 


 その後、堀越と市川は、男から段ボール一箱分の薬を受け取った。堀越がそれを抱え、二人は来た道と同じように、六階から一階まで、迷路のような階段をひたすら下っていく。

 男は「実験から手が離せない」と言い、研究室横の薬品庫で二人と別れ、そそくさと研究室へ戻っていった。


 市川は、下り階段に足を運ばせながらも、頭の中が真っ白だった。

 ……私は、どうしてこんなところにいるのだろう……。


 目の前の階段が、次第に平面的になるような錯覚に襲われる。思わず段を踏み外しそうになり、弾みで前を歩く堀越に、軽くぶつかってしまった。


「すいません……。うっかりしていて……」


 堀越は、ちらりと後ろ目で市川を見たが、すぐに前を向いた。


「まあ……ショックを受けているのは分かるが……気をつけてくれよ。《命》より大切な薬を抱えているんだからね」


 それだけ言うと、堀越は再び、すたすたと歩き始めた。


 市川は、堀越の《命》という言葉に、びくりと反応する。

 命……生きる……死……。

「安楽死」……命を奪う薬……。


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