第3話ー④ 走るワゴン
堀越は、建物の裏手にある駐車場から、手早く車を路地へ回した。
同時に、市川が階段を降りてきて、ウインドウ越しに堀越へ何かを言ったが、堀越は手で「早く乗れ」と合図する。市川が乗り込むやいなや、車は発進した。
営業車の白いワゴンは、女子大の前の狭い路地を、行き交う女子大生をかわしながら、かなりのスピードで駆け抜けていく。
「堀越さん!」
「……何?」
「あっ、危ないですよ。そんなにスピードを出したら……」
車はS字コーナーのように、障害物を右に左に俊敏に避けていく。そのたびに、市川の体も大きく揺さぶられた。
「何を言ってるんだよ……。危ないのは、君の方だろう」
「……どういうことですか……?」
「さっき、君が先生に言った発言だよ……」
「あれは……私は、ただ……」
「ただ……?」
「……ただ、堀越さんと大森先生の会話を聞いていたら、被験者さんにとって危ないことをやっているように聞こえて……。だって、治験は安全に行われるものであって、人体実験じゃないんですよ!」
車は路地を抜け、国道五×線に合流した。ターミナル駅側に延びる、片側四車線の太い跨線橋を越え、市街地へと入っていく。
路面電車が、渋滞する車列を横目に悠々と進む中、堀越の車も、有無を言わさずその流れに押し込まれた。
「こんなに混んでるとは思わなかったな……。裏道から迂回した方が早かったか……」
市川の言葉に、堀越は答えない。膠着した車列と同じように、車内にも重い空気が流れ込む。
「堀越さん!」
市川が、もう一度切り出した。
「私、確かにまだまだ未熟な看護師ですけど……それでも、他の多くの医師や看護師と同じように、人を助けたい、人の力になりたいと思って、この分野に就いたんです。たとえそれが治験という分野でも……。だから、新米だからといって、人の命を軽んじる行為があるとしたら、それを見過ごすことはできません……」
言いたいことを言い切ったのか、市川は口を固く閉ざし、窓の外へ顔を向けた。
市街地のメインストリートには、昭和半ばに建てられたビルやデパートが軒を連ねている。近年、郊外型の大型店舗の進出により、いくつかの商業店舗は撤退し、それがこの地域の社会問題にもなっていた。
空き店舗の前では、将来のメジャーデビューを夢見るストリートミュージシャンたちが、真っ昼間から、人通りの中へ思い思いに歌を届けている。
「君が看護師を志したのは……若くして癌で亡くなった、お母さんのことがきっかけだと聞いたけど……」
堀越が、独り言のようにつぶやいた。市川は答えず、車内に微かに流れ込んでくるミュージシャンの歌声を、ただなぞっていた。
「人は誰しも、夢や希望、そして信念を持って社会に出てくる。だが……それを持ち続けて生きていくのは、非常に難しいことだ……。
大勢の人間――日本人だけで一億数千万人が、狭い場所に寄り集まって生きていくには、暗黙のルールが必要だからね……。きれい事だけじゃなく、汚いこともやらなきゃならないのさ……」
市川は、きっと目を吊り上げ、堀越の方へ振り返った。
「それじゃあ、やっぱり……」
「君も、薄々気づいていたはずだよ。ただの治験事業じゃないってね……。
だいたい、この不景気に、希望通りの職種に就けたこと自体、喜ばなくちゃいけない。それに君には、普通の看護師より、ずっといい給料を払っているじゃないか……。そのことにも、疑問を抱いていたんじゃないのかね?」
市川は、堀越の言葉に思わず言葉を詰まらせた。
確かに、前から何かおかしいとは思っていた。この病院を知ったのも、看護学校の先生の知人だという人物からの紹介だった。成績が特別良かったわけでもなく、実習でも失敗ばかりしていた自分を、なぜ採用したのか。
看護師になれたことで、その疑問はしばらく忘れていたが――。
「……じゃあ、そのお金は……口止め料、ということですか?」
「君の考え方次第だよ。ただ、少し特別な治験をやっている。だから給料が高い――そう考えればいい……」
いつの間にか、堀越の車は、主要道路が交差する大きな交差点に差しかかっていた。信号脇に、グリーンの矢印が灯り、路面電車が一足先に動き出す。
「一体、大森先生は……何をやろうとしているんですか?」
「正しくは、大森先生じゃない……これから会いに行く人の話だがね……。
もっとも、この先の話は、あまりにも重い。君に話すのを、正直ためらってきた……。だが、これも僕の役目なんだろうな……。――おっと、青だ」
車は、路面電車の鉄路を跨ぎ、大きく右折した。
大学病院に到着したのは、それから十分ほど後のことだった。




