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快速四号  作者: ヤーツツ・トモミ
発車前
10/45

第3話ー② 契約の一週間

今日は平日ということもあってか、面接事務所近くの女子大の出入りは、この前来た時よりも幾分多い気がした。


「高橋さん、どうぞ。では、さっそく治験の方に入りますが、よろしいですか?」


「ええ……」


「では、その前に、こちらの契約書にサインをいただけますか?」


 契約書には、この治験の内容を他人に話さないこと、いわゆる守秘義務が記されていた。薬を開発する上での秘密は、ライバル会社との競争を考えれば当たり前のことだろう。特に不信感を抱くこともなく、高橋はサインをした。


「高橋さんには、ここで一週間ほど、投薬試験を受けていただきます。その間、外部との連絡は取れませんが、よろしいですか?」


 特に連絡を取る相手もいないが……。


「一週間、まるまる、ここにいるってことなんですか?」


 事務員は仏頂面を崩さぬまま、淡々と答える。


「そうですね。今回の試験は、ある程度連続的に投薬を行い、データを取る必要がありますので……。何か不都合がおありでしたら……」


「いえいえ、それは大丈夫なんですが……あの、聞きにくいんですけど、報酬はいくらくらいいただけるのでしょうか?」


 事務員の顔が、一瞬、にやりとしたように見えた。しかし眼鏡をずり上げると、すぐに平静を取り戻す。


「治験にご協力いただいた方には、負担軽減費という名目で……まあ、お金をお支払いしています。今回は一週間続けての試験となりますので、二十万円となります」


「二十万……そんな大金を……」


「ええ。高橋さんは、何も気にすることはありませんよ。開発費はすべて、製薬会社から出ておりますので……」


 一週間で二十万……ざっと一日三万。

 世の中には、稀においしい話があると聞くが、このバイトはまさにそれに当てはまりそうだ。だが、やはり怪しすぎる。しかし、金さえ手に入れば、それでいい。――最悪、死んでしまっても、それはそれで構わないのだから……。


「そうですか……。いや、あまりにも大きなお金だったもので。そういえば、これは何の薬の開発なんですか? この前は教えてもらえませんでしたけど……」


「そうでしたね。それは二階の診察室でお話ししましょう。詳しい説明は、大森医師から行いますので」


 医師の名前は、大森というのか……。


「そういえば、お名前を伺っていなかったような……」


「あっ……それは大変失礼いたしました。私、事務員をしております、堀越と申します。こちらの治験主治医が大森、看護師が市川です」


 堀越と高橋は、この前と同じように一度外へ出て、壁に貼り付けられた錆びた階段を上った。

 ――本当に、非常階段みたいだな……。


 高橋は、以前から気になっていたことを、つい口にしてしまった。


「あの、看護師さん……採血の時、かなり不慣れな感じがしたんですけど……大丈夫なんですかね?」


 言った後で、余計なことを言ってしまったと後悔した。


「ははっ、心配ありませんよ。確かに、まだ看護師になって日は浅いようですが、まあ、採血は意外と難しいものですからね~」


 堀越はそう言って軽く受け流し、二階の診察室の扉を開いた。


「大森先生、高橋さんがお見えです」


 大森は、奥に置かれたデスクに座っていた。

 U字に禿げた頭を、ほんの少しこちらに向け、軽く会釈する。高橋は堀越に促され、大森の正面の椅子に座らされた。


 大森は手にしていた書類から目を離し、高橋に話しかける。


「高橋さん。このたびは、当院の治験にご参加いただき、誠にありがとうございます。それでは、これから日程と注意事項を――」


 なんだか、ツアーの添乗員のセールストークのようだ。

 治験もビジネスみたいなものなのか……それにしては、あまりにも知られていない業界だが……。


「先生、先に高橋さんに、この薬の内容について説明した方が……」


 堀越が、大森にそっと囁く。二人は数秒、視線を交わし合い、ややあって大森が再び口を開いた。


「そうだね……。高橋さん、これは頭痛の新薬の治験です。この前も申しましたが、第一相試験ですので、健康体の方に投薬する必要があります。

 投薬後、本当に効き目があるのか、害はないのかを、採血や脳波測定などによって調べていきます」


「もし、害が出た場合は……?」


「害というのは、副作用のことですね……。ご心配なく。第一相の治験では、ごく少量の薬を投与しますので、人体への危険性は皆無です。ただし、万が一、副作用が後遺症として残った場合には、製薬会社から全額治療費が支払われますので、ご安心ください」


 ――後遺症。

 副作用であっさり死ぬならまだしも、後遺症が残るのは厄介だ。


 高橋の表情が曇ったのを察したのか、堀越が慌てて補足する。


「高橋さん、心配ありませんよ。第一相試験では、健康体に投薬することから、国の方からも安全面について厳しく指導されています。当院でも、これまで後遺症が残った事例はありませんし……」


 大森も、無言でうなずいた。


「それでは、さっそく採血に移りましょう……」


 堀越が、さっさと高橋を促す。

 採血は、この前もやったはずだが……きっと、また別の検査なのだろう。


 診察室の奥の扉が開き、新人看護師の“ニセロリ”市川が入ってきた。


「それでは高橋さん、今度は痛くないように採血しますので、腕をまくってくださいね」


 先ほどの会話を聞かれていたのかと思い、堀越の方をちらりと見るが、相変わらず澄ました表情をしている。

 そして、採血の結果は――見事に期待を裏切られた。


 その後も、前回と同じような検査を二、三受けさせられた。


「それでは高橋さん、これから脳波を測定します。そして、そのまま引き続き、薬の臨床に入っていきますので……」


 高橋は備え付けのベッドに寝かされ、先端が吸盤のようになった器具を、頭にいくつも取り付けられる。それらは、測定器のような機械につながっていた。

 脳波を測るのだろう。


 ピッ、ピッ、ピッ……。


「よし、データ異常なし……。高橋さん、脳波は異常なしです。いや、実に健康な脳波ですよ」


 お世辞を言われても、今まで脳波など測ったことがないので、どう返せばいいのか分からない。


「それでは、これから臨床に入ります……」


 大森はそう言うと、今度はニセロリに任せず、自ら、やや太めの注射針を高橋の腕に突き刺した。


 脳波測定器が、メトロノームのように、ピッ、ピッ、ピッ……と一定のリズムを刻む。

 これが、俺の脳の波動リズムなのだろうか。


 その音を聞いているうちに、高橋の意識は、次第に深いところへと落ちていった。

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