上編
火曜日の朝七時半。時沢一太は駅のホームで電車を待っていた。多くの人が行き交うこの時間帯が一太は好きだ。雑音だらけの空間に、たくさんの見知らぬ人間が右へ左へ流れていく。こう流動性が高いと余計なものを見なくていい。——『余計なもの』を例えるなら、電車が通るたびにぶつかりにいく陰気なサラリーマンだとか、売店の横でうらめしげに商品を見ている浮浪者みたいなもの、あるいは天井からにたにた顔をのぞかせる不気味な女である。
一太は生きている人間をボーッと眺めた。やはり生者は見ていて安心する。雑音にまぎれて会話がぽつぽつと聞こえてきた。
「なあ聞いたか、昨日S高の女子生徒が自殺したんだってよ」
「うわー。いじめかな」
電車が来てみんなが乗り込む。その流れに逆らわずに身を任せれば、しばらくして電車がゆっくりと動き出した。先ほど何気なく聞こえた会話を思い出して一太は小さく息を吐く。自殺直後は見分けがつかないくらいハッキリ見える。場合によっては凄まじい怨念を放っていることもあるのだ。見えなくとも、敏感な人には障りがあるだろう。極力関わりたくもない。
ふと、通り過ぎる駅のホームの中に目を引くものがあった。人混みの中、ひとりの女の子がくるくると踊っているのだ。一太は詳しいわけではないが、なんとなくその踊りがバレエなのではないかと思った。すでに電車は動き出していたために、その子を見たのは一瞬だ。しかし指先までピンと伸ばした所作の美しさが、まぶたに焼き付いていた。
学校に着く。特に仲がよい友人がいるわけではなく、一太はひとり静かに過ごす。ごくたまにそれをからかわれるが、だいたいはジッと耐えた。反発したところで場が好転したことなどないし、我慢さえすればそれ以上ひどくもならない。——と思っていたのだけど、今日は違った。
「なあ、なんでいっつも無視すんの? せっかく話しかけてんのにさー」
「ウザ沢の相手すんの俺らくらいだぜ」
机のまわりに群がる同級生。にやにやとした笑みをうかべて一太を見下す。その視線の恐ろしさにこぶしをぎゅっと握った。
「ごめん……」
「はあ? 声が小さすぎて聞こえねえって」
男子生徒のひとりが一太のペンケースを取り上げた。おもしろいものが入ってやしないかと勝手に中を漁る。
「あ、なんだこれ」
「数珠じゃん。なにおまえもしかして視える系?」
「うっわ」
一太はしまったと冷や汗をかく。本当に効くかはわからないけど、なんとなく持ち歩いている小さな数珠だった。学校にいる間はペンケースの中にしまっていて、それが見つかってしまった。
「呪われそう。ほれ、パス」
「きも、やめろって」
同級生らはキャッチボールをするかのように笑いながら数珠を投げ合う。
返してよ、のひとことが言えない。一太は彼らが手でもてあそぶ数珠をはらはらとした心持ちで見つめた。幸いにも授業を告げるチャイムが鳴ったので、彼らはとたんに一太に興味をなくして去っていく。
ほっと息をつくものの、気付けば全身にびっしょりと汗をかいていた。
生者の方が見ていて安心する。でもその中にうまく馴染めるかは別問題だった。
駅。朝ほどの混雑はなく、まばらな人々の間を縫うように一太は歩く。学校でのこともあって今日はなんとなく気持ちが重い。軽やかとは言いがたい足どりで乗り場へと向かう途中、それはまた一太の視線を奪った。
くるくると回る一人の少女だ。学生服に身を包み踊るその姿は異様で、可憐だ。バレエのことはわからないが、踊りがこんなにも目を惹くものとは思わなかった。足の先、指の先まで意識されていて、のびのびと動き回る姿に感銘を受ける。思わず立ち止まってしまうくらいに。
少女は踊る。スカートをひるがえし、蝶のように軽やかに舞う。高い位置で結われたポニーテールが後を追うように弧を描いていた。あれは生者ではない。生きている人間は、柱や人をすり抜けて踊らない。しかしそれすら舞台装置であるかのように、少女は幻想的に踊り続けた。
魅入っていると、目があった。踊り続ける少女はにこりと一太に笑いかける。思わぬことに肩が跳ねた。なにか言ったほうがいいのか、いやいや生きた人間相手にもうまくしゃべれないのに。一太はあわててその場を走り去った。心臓がどくどくとうるさいくらいに鳴っていて、しばらくの間、少女の笑顔が頭から離れることはなかった。
あれは、生者ではない。ハッキリと見えるのは死んで間もないからだ。わかっていても瑞々しいその肢体が繰り出す踊りは、誰よりも生き生きとしていた。
S高の女子生徒が自殺した。理由まではわからないが、自宅で首を吊っていたと一太は耳にしていた。もし、いじめが原因だったらやるせないと思う。しかしそれと同時に耳にした不気味なうわさが気になった。少女は死ぬ前にポニーテールの根本を刃物でざっくり切り落とした形跡があるそうだ。そしてその髪は見つかっていない。自分でやったのか、他の人間がやったのか。
駅の構内で踊り続ける彼女を想う。きっと、自殺したS高の生徒が、あの子だ。楽しそうに踊っているのに、どうして。
「なんで、踊ってるの」
今日も彼女はくるくると踊っていた。周りにあまり人もいなかったので、ごく小さな声で聞いてみる。ポニーテールを揺らし、少女はにこりと笑った。
「好きなの。それに踊り続けていたら、いいことがあるから」
舞いながら彼女は答えを返してきた。一太は自分の体温が上昇するのを感じる。顔まで熱ってきたようだ。それは彼女の顔つきが可愛らしかったからとか、女子と話したのが久しぶりだからとか、幽霊と会話が成立した事に驚いたからかもしれない。
「いいことって?」
それには答えず、少女は軽やかに踊り続けていた。
◇
「なにその目」
肩を突き飛ばされて、一太は床に勢いよく尻もちをついた。帰り際、人気のない廊下。硬い床にぶつけた手や臀部がジンジンと痛む。男子生徒は鬼にような形相で睨みつけていた。やめてよ、と言うより前に強く蹴りつけられ、一太は身を縮こまらせた。
「おい落ち着けって」
なにが男子生徒を怒らせたのか、理由はわからない。一緒になって一太をからかう仲間も、今ばかりは彼を諫めていた。たんに腹の虫が悪いのか、それとも無意識に人を不快にさせてしまったのか。考えても一太にはよくわからない。それに、その生徒は味方をしてくれるわけでもなかった。
「時沢。おまえも、そのいかにも根暗ってオーラやめろよ。見ててイライラすんだわ」
それだけ言い放つと、男子生徒らは行ってしまった。一太は即座に立ち上がるも、それ以上動くことができず、その場で立ち尽くしていた。どうしたらいいんだろう。自分はただそこにいるだけで不快感を与えてしまうのだろうか。窓からくる風は生ぬるいのに、からだはひどく冷えていた。
小さい頃はうまく人と接するできた気がするのに、ここ数年はほんとにダメだ。一太は静かに息を呑む。死者に怯え、生者に馴染めない生活。これといって得意なことも、やりたいこともなく、人よりも不器用に生きてきた。良いことはできなくても、せめて人に迷惑をかけないようにしてきたつもりだったのに。うつむいた一太の表情は暗く、悲しげである。
そのとき、ふと思い出したのは、駅で踊る少女であった。死者でありながらきらめくその姿は、とても眩しい。
会いたい。そう思ってしまえば一太の足は迷うことなく動きはじめた。時間は有限だ。鮮やかな彼女の輪郭は少しずつ淡くなっていた。今すぐに消えることはないだろうけど、それでもずっとあり続ける存在じゃない。
一太は駅へ着くと彼女を探した。くるくると踊るっている姿を見つけて、胸の内が温かくなった。そのことに苦笑する。まさか幽霊を見て安心する日がくるなんて。彼女は一太を見ると嬉しそうに目を細める。
「もうすぐだよ」
そう言って笑う少女はとてもきれいで、
——どこか不気味だった。