飛翔
準備が出来てすぐ。
武器と荷物を背負ったエレナたちは、息を切らしながら、全速力で走っている。
一方、先頭を行くクラドーは悠然としたものだ。なぜなら彼は空を飛んでいるから。
両翼を大きく広げ、鱗を輝かせながら、濃い青色を背にぐんぐんスピードを上げる。その雄々しい姿は『天空の王者』と言うにふさわしかった。
エレナはひそかに興奮していた。絵本や古書でしか知らないものが、目の前で生き生きと躍動している。彼を見ていると、人間なんて本当にちっぽけな存在なんだなと、しみじみ感じた。
「はぁ、はぁ! ちくしょう! ずるいぞ、あの野郎!」
ところがアストラはそうは思っていないらしく、横で子供みたいな文句を垂れている。だがそれも無理はない。山を登るにつれ積雪量が増し、嫌というほど足を取られるのだ。しかも地面にはいくつも裂け目があるので、それも回避せねばならない。ただでさえ歩きにくいのに、クラドーはお構い無しに速く飛んでいく。二人は付いて行くのがやっとだった。
「グハハハハ! 人間共よ! 遅いではないか! そんなことでは日が暮れてしまうぞ?」
クラドーは空中で一回転し、優越感たっぷりに二人を見下ろした。
「うるせぇ! あんたみたいに飛べねぇんだから、仕方ねぇだろ! バカにするなら一緒に走ってみやがれ!」
アストラは青筋を立てて怒鳴る。疲れているのか、だいぶ苛々しているようだ。エレナは彼らが喧嘩を始めないか、ひやひやしていた。せめて回復魔法が使えたら、もう少し楽に進めるのだろうが、それは約束があるため出来ない。身体が辛くても自力で頑張るしかないのだ。
「ふん! 若造めが! 弱いくせに減らず口は叩けるのだな!」
クラドーは手の届かぬ高い場所から嘲笑した。頭に血の上ったアストラが言い返そうとするのを、エレナは慌てて遮る。
「あの! クラドーさん! 私たち、一体どこへ向かってるんですか?」
「山のてっぺんだ。そこに友が居る」
「妖精さんとあなたは、ずっとここで暮らしてるんですか?」
「ああ、そうだが」
「あなたたちは、どうしてこんな危ない場所に住んでるんですか? 大昔は人間たちとも、一緒に暮らしてたんですよね?」
「……いにしえの戦争について、何も知らんのか?」
クラドーが小声で尋ねたので、エレナはよく聞こえなかった。
「え? なんですか?」
「いや、いい。こちらの話だ」
クラドーは探るような目をしてから、また進み始めた。何も教えてくれるつもりはないようだ。
エレナとアストラは、彼に必死で食らいついていく。
一時間ほど経って、皆は山の真ん中辺りまで来た。
雪はさらに深くなり、傾斜はきつくなる一方だ。エレナはだんだん足が上がらなくなってきて、誤って転んでしまった。
「痛っ!」
柔らかい雪のおかげで身体を強打することはなかったが、右の手のひらを擦りむいてしまった。
「おい! 大丈夫か? おっさんっ!! ちょっと待ってくれよっ!!」
大声でクラドーに告げてから、アストラがエレナに駆け寄る。クラドーも身を翻し、地面に降りてきた。
「けがしたのか?」
「うん。ちょっと痛いけど、平気」
「無理すんな。少し待ってろ」
アストラは自分の荷物から薬草と長い布を出した。それから、エレナの血の滲んだ右手に薬草を貼り、布で固定した。豪快な巻き方をしたので、少々不格好だ。
エレナは彼の気遣いに嬉しくなって、ふわりと笑った。
「ありがとう」
「気を付けろよ。大けがでもしたら死んじまうぞ。あいつのせいで魔法が使えねぇんだからな!」
アストラは最後、クラドーに聞こえるよう皮肉たっぷりに言った。二人のやり取りを興味深そうに眺めていたクラドーは、ムッとした表情でアストラを睨んだ。
「手、貸せよ」
アストラは座り込むエレナの左手を握り、力強く引っ張り起こす。彼の視線には、何故か熱っぽさが感じられた。エレナは先ほど抱きかかえられていたことを思い出し、どきっとしてしまう。
何だろう。アストラ、いつもと違うような気がする。
彼の変化を察知しながら、その原因が分からないエレナは、ただ心の隅で首をかしげるしかなかった。
クラドーを追いかけてしばらく走り続けると、巨大な谷が現れた。向こう側までの距離は、約十メートル。どれだけ勢いをつけても、走って飛び越えるには遠い。二人が途方に暮れていると、クラドーは笑った。
「さあ、どうする? この先に行かんと、妖精には会えんぞ?」
彼は空から二人の行動を監視している。試しているのだ。エレナとアストラが、自分との約束をちゃんと守るかどうかを。
エレナは恐る恐る谷の下を覗きこんだ。奥に行くにつれ、広がる無限の闇。どれだけ深さがあるのか、想像もつかない。
谷底へ引きずりこまれる感覚に陥り、エレナはぞっとしてその場から後退りした。
「くそ! こんなところ、どうやって行けってんだ!」
アストラは憎らしげにクラドーを見上げた。竜は笑みを作ったまま黙っている。エレナはどうすればいいのか、じっと考えていた。
もし魔法を使うなら、氷か土の魔法で橋を作るんだけど、それは無理だしなぁ。
困ったエレナは、荷物を下ろし、何か使えそうな道具がないかを探した。
「ん? これは……」