信頼
──雨音が消え、緑の光が収まった。肌に触れる空気が、凛としたものに変わる。
エレナとアストラは、そっとまぶたを持ち上げた。
目前に広がるのは、輝く太陽と澄んだ空。果てしなく続く、雪と氷の大地。そして何者も寄せ付けない、青く尖った連峰だ。
穢れなきその出で立ちは極めて壮大であり、神々しさを醸し出している。
「ここが死の大地、【ランドルグ】……!」
押し寄せる実感と共に声が漏れ、鳥肌が立つ。
周囲に生き物の気配は一切なく、怖いくらい静かだ。ちっぽけな人間ごときが、気安く足を踏み入れてはならない。そんな警告を、山々は発しているようだった。
本当にこんなところに妖精族が住んでいるのだろうか。何だか疑わしくなってくる。
悪い方に考えちゃだめ。見つかるって信じなきゃ。
不安と緊張から、心臓が高鳴る。彼女は零下の空気を深く吸い込んだ。意識してそれをゆっくり吐き出していく。真っ白な息の塊が、消えることなく宙をさ迷っていた。
「何だこれ!? 寒いじゃねぇか! こんだけ厚着して魔法もかけてんのに、どうなってんだよ! このくそ氷山が!!」
到着早々、アストラが不快そうに美しい自然へ八つ当たりを始めた。神聖な雰囲気などお構い無しだ。例え何が相手でも、彼は決して怯まない。清々しいまでに、マイペースな男である。
幼なじみの相変わらずな調子に、エレナはふ、と肩の力が抜けた。思わず笑みがこぼれる。
「たぶん魔法でも補えないくらい、気温が低いんだろうね。なにせ死の大地だから」
「ちっ。こんな場所、長く居てらんねぇよ! さっさと妖精を見つけちまおうぜ!」
「待って。もう一度、行き先を確認しよう」
エレナとアストラは、ユーティスが書き写した地図を凝視する。ランドルグ山脈の一番高い山に丸印が付けられており、そこが最終目的地なんだと改めて理解した。
「賢者様は南の入口に送ってくれたんだから、私たちはこのまま、北の方角に向かって歩けばいいんだよね?」
側に立つアストラを見上げ、同意を求める。二人の視線が間近でかち合った。
「っ! そうだな! あの山目がけて歩きゃいいと思うぜ!」
「ん? アストラ?」
「何だよ、人の顔じろじろ見て」
「ほっぺた赤くなってるよ? 寒いからかな? 凍傷になるといけないし、フード被ろっか!」
「お、おう!」
アストラは何故か慌ててそっぽ向き、フードを素早く被っている。エレナは大丈夫かなぁと心配しつつ、自身もフードを被った。
「よし! じゃあ出発しよう!」
エレナとアストラは山を目指して歩き出す。しばらくは平地を進むことになりそうだ。
固く凍りついた地面は滑りやすく、ところどころ深い裂け目が生じている。それらはぱっくりと口を開け、隙あらば油断した者を飲み込もうとしていた。
転ばぬよう、しっかりと地に足を踏みしめる。エレナの頭の中は、ユーティスのことでいっぱいだった。彼が倒れてしまった瞬間や辛そうに眠る姿などが脳内を巡り、気が滅入りそうになる。鬱々とし、黙っているのが苦しくなったエレナは、呼吸を整えながら、横に並ぶアストラへ話しかけた。
「ねぇ。ユーティスさんはどうして呪いの話を、私たちに言ってくれなかったんだろう? そんなに私たち、頼りなかったのかなぁ?」
「どうだかな。ま、あいつのことだから、『悲しませてしまう』とか『迷惑かける』とかつまんねぇ心配したんじゃねぇか?」
「ああ。確かにそうかも……」
それにユーティスは嫌がられるのが怖かったのかもしれないと、エレナは思い当たった。常に淋しさを抱えていた彼は、忌避されることを酷く恐れていたから。
「全くよぉ! あいつ、どんだけ偉いのか知らねぇけど、ほんっと水くせぇわ! もっとおれらを信用しろっての!」
「うんうん。そのあたり、帰ったらユーティスさんに、ちゃんと話さなきゃね」
「むしろおれがとことん説教してやるよ! そんな大変な事情があるなら、早く言いやがれって!」
「あはは! ユーティスさん、目を覚ましたら災難だね」
「ついでにお前を泣かせた件も怒っといてやるよ!」
「え!? 泣いたの、ユーティスさんにばらさないでよ? 苦しませちゃうから!」
「知るかよそんなもん! 自業自得だろ? あいつが目を覚ましたら、おれらがどんな気持ちだったか、たっぷり教えてやる! 覚悟しとけよ、ユーティス!」
遠くを睨んだアストラは、黒い笑みをたたえている。ふと、ユーティスが文字通り、死ぬほど責め立てられている絵面が思い浮かんだ。エレナは彼の繊細な心を、悪魔から守ってやらなければと、ひそかに誓った。
普段通りのくだらないやり取り。
エレナはいつの間にか、自分が落ち着きを取り戻しているのに気付いた。
彼女は口元を緩め、穏やかな声をかける。
「あのさ、アストラ」
「お?」
「ありがとう。一緒にここまで来てくれて」
唐突に礼を言われ、アストラはエレナにきょとんとした表情を向ける。
「私一人だったらきっと、不安で不安でたまらなかったと思う。でもアストラが付いて来てくれて、今すごく心強い。危険だって分かってるのに、来てくれて、ほんとにありがとう」
村に居た頃は全然気付かなかった。意地悪ばかり言う、彼の本心を。友を大切に想う、その優しさを。
長い旅と戦いを通し、エレナのアストラに対する見方は、『口うるさい幼なじみ』から、『信頼の置ける仲間』へと変化していた。
「ふん! 別にお前のためじゃねぇよ! もちろんあいつのためでもねぇ! おれは、じっと待ってるのが性に合わなかっただけだ!」
アストラはプイと照れた顔を反らし否定する。仲間を助けたかったから、とは、素直じゃない彼はどうあっても認めないだろう。
このひねくれた性格は、一生直りそうもないなぁ、なんて呆れながら、エレナはちょっと笑った。