広がるあざ
──「怖い。近付かないで」
「逆らえば殺されるぞ」
「普通じゃない」
「妖精を母に持つからか。恐ろしいことよ」
「決して関わるな」
老若男女。暗闇の中で、たくさんの声が聞こえる。
そこから読み取れるのは、明確な悪意、畏れ、拒絶の感情だ。
両耳を塞いでも、声は止まらない。むしろ間近に迫ってくる。
ぎり、ぎりと。
徐々に首を絞め上げられていくような感覚に陥った。
「彼の力は危険だ」
「とんでもない化け物を育ててしまったのかもしれぬ」
「この男を利用してやろう」
「邪魔者は消さなければならない」
「手に入らぬなら、いっそ殺してしまえ」
嫌だ。聞きたくない。やめろ。やめろ……
「やめてくれ!!」
──その日の真夜中。
青白い月光の差し込む部屋にて。
ベッドに横たわり、悪夢に苦しめられていたユーティスは、自分の叫び声でハッと目を覚ました。全身、汗びっしょりだ。
喉はからからに渇いていた。息を乱したまま半身を起こすと、左の首筋に痛みを覚える。見ると、黒い模様が左肩まで広がっていた。
そんな。あざが酷くなっている。
彼は小刻みに震える手でその箇所を押さえた。
やっと手がかりを見つけたのに。間に合わないというのか?
襲い来る絶望に、必死で抗う。まだ何とかなる、まだ時間はあると、繰り返し頭で唱えた。
ユーティスは治癒魔法を使おうとしなかった。彼の負った傷は、そんなものでは治らないと知っていたから。
その時、出し抜けにドアが開き、紺の寝間着姿のアストラが勝手に部屋へ入ってきた。
「あっ、アストラさん! どうされましたか?」
ユーティスは冷静さを欠いていて、いつもの笑顔が貼り付けられなかった。
「どうされましたじゃねぇよ。すげぇうめき声聞こえたぞ。大丈夫か?」
なんと彼の居る二つ隣の部屋にまで、うなされている声が届いていたらしい。ユーティスはどうにか口端を引き上げた。
「平気です。ちょっと悪い夢を見てしまって」
はだけている白い寝間着の襟元をさっと正し、あざを隠した。
「ほんとかよ。顔色わりぃぞ。お前、寒くて風邪でも引いたんじゃねぇの? 大賢者のくせに、弱っちいな」
アストラが腰に手を当て、怪訝な顔をする。何だか酷い言われようだが、一応、心配してくれているようだ。
「本当に、大丈夫ですから」
ユーティスは血の気のない顔で強く念を押した。するとアストラは目つきを剣のごとく尖らせ、言った。
「嘘つくんじゃねぇよ」
「え?」
「おれの目は節穴じゃねぇんだ。お前が大丈夫じゃないことくらい、見たら分かる。何か悩んでるなら、ちゃんと話せよ」
胸に一発、衝撃が訪れる。アストラは感づいているのだ。自分がまだ大きな秘密を抱えていることを。
心音が激しく鳴り響いていた。押し潰されそうな沈黙が、部屋に流れる。真っ直ぐな視線に耐えきれず、ユーティスはうつむいた。
「すみません。言えないです」
「またそれかよ。いい加減にしろよ」
「すみません。解決したら、お話します」
アストラはじとりとユーティスを見下ろし、声を荒げた。
「平気な振りして、抱えんな! お前、いつかぶっ壊れそうで見てらんねぇよ!」
ぶつけられた言葉に愕然とした。笑顔で不安を隠している。上手く平静を装えているつもりでいた。
だがアストラには気付かれていたのだ。彼はとても怒っているが、真剣に自分を心配してくれているのだと感じた。
「すみ、ません」
「謝るな。言いたくなきゃいい。具合わりぃなら、とにかく寝てろ!」
ぶっきらぼうに告げた後、アストラは力任せにドアを閉め、部屋を出ていった。
ユーティスは深緑の瞳を潤ませて、両手を握る。
嘘をつくのも、隠し続けるのも、本当は苦しい。
全てを洗いざらい話せたら、どれだけ楽になれるだろう。
でも言えるはずがない。真実を知れば、彼らはきっと私から離れていってしまう。
せっかく見つけた仲間を失って、また一人ぼっちになってしまう。
うずくまったユーティスの目から、涙がこぼれた。寝間着に一つ、また一つと丸い跡がついていく。
「それだけは。どんなことがあっても、避けたいのですよ」
すがるような、かすれ声。
届かぬと知りながら、もう居ない彼に、ユーティスは言い訳を投げた。
孤独に怯え、人知れず漏らした嗚咽は、淋しい夜の闇に吸い込まれていったのだった。