憧れの大賢者
細い三日月の浮かぶ夜。
森にたたずむ廃れた屋敷の一室にて、埃を被った本を読みあさる者が居た。闇色のローブを身に付けた男だ。
巨大な本棚には魔法書と古い文献が並び、床には動物や人間の骨が無造作に転がっている。
辺りは薄暗く、机に置かれたランプの光がなければ、何も見えない。部屋は不気味なほど静かで、ページをめくる乾いた音だけが、延々と響いていた。
「見つけたぞ」
三つの石が描かれたページ。そこでようやく長い指が止まった。
人影は怪しく笑う。
その男は一冊の書物を手に外へ出て、ためらいなく屋敷に魔法を放った。
炎が上がり、夜の森は煌々と明るくなる。
去り行く男の首筋には、黒い蛇の模様が照らし出されていた。彼が世界を揺るがす手がかりを掴んでしまったことを、今はまだ、誰も知らない──。
ここは魔法が存在する世界【グリンティア】。
そこに住まう精霊・竜・人間たちは、生まれながらに魔力を備えている。ただその中でも、才能を持った一握りの者しか、魔法使いにはなれない。
辺境の村ルピス。緑豊かなこの場所に、無謀にもそれを目指す者が居た。
「はぁー! なんて格好いいんだろう!」
ある晴れた昼下がり。
紺のローブを着た十七才の少女エレナは、村の広場の椅子に座り、うっとりと言葉を漏らした。
肩まであるさらさらの赤髪が、太陽の日差しを浴びて艶めいている。頬はピンク色に染まっていて、笑顔がまぶしい。若々しく明るい雰囲気の娘である。
エレナは眉を下げ、長いまつげに囲われた茶色い瞳をキラキラと輝かせていた。その胸に抱いている分厚い本は【大賢者伝記】だ。
三年前、魔王フォボスを倒した偉大なる魔法使い【ユーティス=ニュンフェ】の冒険が、そこには記されている。
ところで、本の表紙の裏に、大賢者の美しい似顔絵が描かれているが、先ほどのエレナの独り言はそれに向けられたものではない。
大賢者の素晴らしい活躍に対する称賛である。
降りかかる苦難に悠然と立ち向かい、様々な上級魔法を使いこなして魔物を圧倒する様は、まさに英雄そのもの。
エレナは大賢者の計り知れない強さに、心の底から憧れていた。(暇さえあれば本を持ち歩いて読んでいるので、もはや崇拝の域に達している)
「私も大賢者様みたいになれたらいいなぁ」
本に視線を落としながら、エレナがつぶやくと、急に後方から、くつくつと笑い声が聞こえてきた。
素早く振り返ると、そこには短い黒髪にがっしりした体格の青年──アストラが腕を組んで立っていた。
彼は茶色いチュニックに皮のベルトを絞め、動きやすそうな七分丈のズボンを履き、長剣を背負っている。
きりっとした太い眉とぱっちりした二重の目は、アストラの活発な性格を表しているようだ。
「ちょっと、何がおかしいのよ?」
眉をひそめて問うと、アストラは青い瞳を細め、少し意地悪な笑みを浮かべた。
「だってお前、魔法ちっとも使えねぇじゃん! それなのに大賢者みたいになりたいとか!」
「何よ。アストラだって使えないでしょうが」
エレナはムッとして立ち上がり、笑いをこらえるアストラを見た。彼は背が高く、エレナを悠々と見下ろしている。
「おれは一流の剣士だからいいんだよ。お前は一応、魔法使いだろ?」
アストラは自慢気な顔をして両手を腰に当て、堂々と開き直った。完全に馬鹿にしている。エレナは腹が立ってきて強く言い返した。
「一応って言わないでよ! 初級の魔法なら少し出来るんだから!」
「へえー。何が出来るってんだ?」
「ふ、【火炎】なら、ちょっぴり使えるし!」
「は? 豆粒くらいの火しか出せねぇだろ。それでどうやって魔物を倒すんだ?」
「その火で燃やすとか?」
「いや、小さすぎて無理だろ」
「たいまつに火をつけるとか?」
「照らしてどうすんだ」
「杖で叩くとか?」
「それ魔法関係ねぇだろ」
「…………くううううううううっ!」
冷静に痛いところを突かれ、エレナは拳を握りしめた。今回の言い合いはアストラの勝利のようだ。
同い年だからか、アストラはエレナを見つけると、いつもこんな風にからかってくる。なので不毛な争いも日常茶飯事だ。
悔しがるエレナを尻目に、アストラは更に笑顔で追い討ちをかける。
「お前が魔法使いなんか、とうてい無理だろ。時間の無駄だから、諦めてもっと他のこと目指したらどうだ?」
「もう、ほっといてよね! 私は私の好きにするんだからっ!!」
真っ赤になったエレナは早口でまくし立て、アストラを思い切り睨んでから、本を手にずんずんとその場を去った。