不滅
「悲しいこと、言わないでください」
意思ある言葉が、はっきりと聞こえた。
エレナだ。たくさんの闇を受け、息を切らし汗をかきながら、涙を流している。ユーティスの瞳にかすかな煌めきが戻り、彼は頭を上げた。
「エレナ、さん……?」
彼女は振り向かず、悲痛な大声を上げた。
「どうしてユーティスさんが死ななきゃいけないんですか? あなただって、みんなと同じ命があるのに! 幸せになりたいって思ってるはずなのに!!」
エレナの心は張り裂けてしまいそうだった。魔王から悪意を浴びせられているせいではない。愛する人の孤独と苦悩を想ったからだ。
人と違って何が悪いの?
どうして自分と違うものを嫌うの?
犠牲にならなきゃいけない命なんて、あっていいの?
誰かの幸せのために、誰かが不幸にならなきゃいけないの?
そんなの、間違ってる……!
数多の命のゆりかごである世界。大切だなんて、言われなくとも解っている。
しかし愛する者を切り捨てる世界に、何の意味があるのだろう?
そんなもの、存在していても空虚で淋しいだけだ。
『私と、皆が生きるこの世界。あなたはどちらを選ぶつもりですか?』
不意にユーティスの厳しく問う声が思い返される。エレナはその答えを頭の奥で強く口にした。
大好きな人と世界、どっちを選ぶかなんて。
そんなの、決まってる。
エレナは目付きを鋭くし、膨大な闇を受け続けた。ほどなくウーディニアは異変に気付き、みるみる顔を歪ませた。
「何故だ? こんなにも悪意を浴びているのに、何故貴様の心は闇に堕ちない?」
エレナはウーディニアを強く見返した。
「悪意なんて、最初から持ってる。私だってユーティスさんだって皆だって。きっとたくさん怖い部分がある。だけど、それはあって当たり前なんだ」
「何?」
「闇は大きい。それは心を全部を飲み込んでしまいそうになるかもしれない。だけど大切な人が側に居たら、それに負けないでいられる。戦っていられる」
家族を想う気持ち。
苦しみや痛みに寄り添う優しさ。
友を信じ抜く強さ。
困難に立ち向かう勇気。
他者の幸せを喜び、願う心。
人は醜いばかりではない。美しさも胸の内に秘めている。
『大切な誰かを想うこと』。それは時に、何者にも負けない力となる。その感情は、無限の可能性を作り出すのだ。
かけがえのないものが、二つ。片方だけなど選べない。ならばどちらも選び取ればいい。
何者も犠牲にしない世界。叶わぬ理想だとなじられる、子供じみた願い。
それがエレナの選んだ道だ。迷いなど微塵もない。信じたその想いをただ全力で貫く。
「あなたが神だろうが何だろうが、関係ない! 私は闇を受け入れる! そしてそれすらも、自分の力に変えてやる! ユーティスさんも、世界も、私は全部この手で救うんだ!!」
ウーディニアに向かって、心から叫んだ。その意志に呼応するかのように、エレナの瞳の色が、赤から金へと移り変わった。真っ黒だった翼は、生え際から純白に染まる。着ていたローブは真っ白な衣になり、地に付くほど長い赤髪は黄金に輝き出して、身体中が発光し始めた。
気高く麗しく、それでいて神々しい姿。例えるならそれは、古い歴史より信仰され続けてきた、創世の女神のようだった。
「闇を自分の力に変える、だと……?」
エレナの変化にウーディニアは頬を引きつらせ、激しい動揺を示した。それから瞳をより赤く燃やして、彼女へ凄んだ。
「ふざけるな……! 人間ごときに闇は制御出来ん! 闇を支配し操れるのは、神である我だけだ!!」
ウーディニアは闇を放出するのを止め、黒い翼を広げて空へ舞い上がった。彼は禍々しい邪気と殺意と風を纏い、狂ったようにエレナへ怒鳴った。
「貴様のような脆弱な娘に、世界を救えるはずがない!! 己の無力さを嘆き、失意を胸に永遠の虚無へ落ちろ!!! 破滅の世界!!!」
どく、どくと。
地響きと共に粘着質な闇が草むらから湧き出てきて、倒れる人々を飲み込んでいく。エレナの全身も沈んでいった。まるで漆黒の底無し沼だ。闇は凍りつきそうなほど冷たく、全身の感覚が麻痺してきて、息をするのも辛い。しかし彼女は酷く落ち着いていた。
『強さは心から生まれるものなんだ。だから諦めるな』
まぶたを閉じると頭に浮かぶ、父の言葉。母の笑顔。リリーや村の人たち。旅で知り合った仲間たち。アストラ。そしてユーティス──
エレナの胸は熱くたぎった。
私は最強になる!
諦めない、絶対に!! 私は、みんなの命と心を守ってみせる!!
私の魔法でみんなを、幸せにしてみせるんだっ!!!
より強く全身から光を放つエレナ。彼女が翼を一度大きく羽ばたかせると、周囲から闇が退いていく。その凛々しい背に、横たわるアストラが力いっぱい声援を飛ばした。
「行け、エレナ!! あいつも世界も救ってやれ!!!」
彼の真っ直ぐな言葉が心に響く。次の瞬間、呪文が頭の中を駆け巡った。昨日、夢に見た状況と同じである。エレナは瞳をかっと見開き、身体中にほとばしる魔力を両手に集め、杖を天高く掲げて叫んだ。
「繁栄の太陽神!!!」
一筋の黄金の光が、杖の先から打ち上がる。
美しい光は黒煙をもろともせず、高い空へと昇り、エレナの真上に花の模様を形作った。そこを起点にして、草木、妖精、竜、人間を象った途方もなく大きな魔法陣が、波紋のように広がっていく。まるで巨匠が描いた一枚の絵画のようだ。
そして世界中の空を図形が覆い尽くした時、天からまばゆい光が余すところなく降ってきた。
「かような魔法など無効だ!! 我が暗黒の闇に全て食らい尽くされるがいい!!!」
ウーディニアは髪を振り乱して叫ぶ。彼は両手を頭上へ向け、どろどろとした闇を放射状に飛ばして魔法陣全体を塗り潰そうとした。
エレナは負けてなるものかと、必死にこらえる。拮抗する光と闇。ウーディニアは怒鳴り、さらなる力を魔法に注ぎ込んだ。
「滅びろ、この世界もろともに!!!」
「必ず救う!!! ユーティスさんと、この世界を!!!」
魂を揺さぶるような大声を放つと、エレナの魔法は急激に力を増した。慈しみと暖かさに満ちた光線は、いっそう眩しく輝く。それは闇をも吸収し、空中にたたずむウーディニアに、確かな重みと力を持ってぶつかった。
「うああああああああああああああああ!!!」
聖なる光は彼の黒い羽根を破り、突き抜け、広い大地へ到達した。
その刹那、闇と雲は払われ、城や森を焼いていた炎が、泡が弾けたみたいにパッと消える。焦げて失くなりかけていた木々や建物は、元通りの立派な姿になり、瀕死の人々の傷は一瞬にして完治した。
倒れていた人々は起き上がり、怪我が治っていると知るや、すごい! 奇跡だ! と驚きの声を上げた。彼らは敵味方で入り交じって抱擁し、喜びを分かち合っている。
「なんという、壮大なる力であろう」
その様子を眺めていたダミアが、感涙しながら呟いた。淀んでいた空気は澄み、魔法陣の消えた空は、清々しい青色をしていた。
「馬鹿な……。人間ごときに我の力が押しきられるなど。そんなこと、あるはずがない」
黒い羽根がふわふわと地に落ちてきている。魔法を浴びたウーディニアは、角も翼も失くして、巨石の前に座り込んでいた。
横たわるユーティスとウーディニアの黒蛇のあざが、すう、と跡形もなく消え失せる。
ウーディニアは、身体全体の色が透けるように薄くなっていた。先ほどの魔法で、闇の力が浄化されたからだろう。元の格好に戻ったエレナは、ウーディニアに近づいた。彼は乱れた前髪の隙間からエレナを睨み、憎悪の言葉を吐いた。
「……生意気な娘よ。その未熟な脳裏に刻んでおくがいい。どんなに抵抗しようとも、闇が全て消えることはない。貴様の努力など無意味だ。愚かな人間が居る限り、我は永久に不滅なのだからな」
「分かってる。悪意はきっと失くならない」
エレナは包み込むような声で言った。
「でも、あなたも存在したっていい。だってあなたは、ユーティスさんの一部だから。怒りや憎しみだって、ユーティスさんの大事な『心』だから」
ウーディニアは赤い目を見開いて、エレナの顔を食い入るように見つめる。彼女は柔らかい表情だった。
優しいそよ風が、ウーディニアとエレナの髪を揺らしている。
「……まさか我を許容する人間が居るとはな」
彼は長いまつげを伏せ、ぽつりと独り言をこぼす。それから、挑戦的な視線をエレナへ投げつけた。
「ならば命尽きるまで、戦うがいい。我はいつでも、奴と貴様らの心を狙っている」
「ええ! 望むところよ! 何度出てきたって、負けないんだから!」
エレナは杖を両手に持ち、攻撃の構えを取る。
「ふっ。どこまでも口の減らない娘だ……」
そう静かに呟いた後、ウーディニアは巨石にもたれ、眠るように目を閉じた。その口元に、ひとひらの喜びをたたえて──。
彼の姿は消失し、代わりにキラキラ光る、四角い暗黒の石が残った。エレナはそれを、壊れぬようそっと手に取る。
「ユーティスさん。もう魔王と一緒に消えようなんて、思わないですよね?」
「エレナさん」
立ち上がったユーティスは、少々不安な瞳をしていた。また闇に翻弄されてしまうのではないかと、恐れているのが解る。エレナは彼を強く励ました。
「ユーティスさんなら、絶対、大丈夫です。私はあなたを信じてます。だからユーティスさんも、自分を信じてください」
ユーティスは差し出された石を受け取って見つめ、両手で胸に押し当てた。
白銀の光と風に包まれた彼は、うつむきまぶたを閉じる。
石は彼の胸に吸い込まれていき、手から消えた。
エレナは不安をねじ伏せ、ユーティスをじっと見守った。彼は下を向いたまま動かない。
一分ほど経ってから、ユーティスはパッチリと目を開け、その後ゆるりと口角を上げた。
「……どうやらウーディニアは、私を乗っ取れなかったみたいですね」
「それじゃあ」
「ええ。もう大丈夫です。あなたのおかげで、私も世界も救われました。本当にありがとうございます」
輝く笑みを浮かべるユーティスに安堵して、エレナはその場にへたり込む。長時間、張り詰めていた緊張の糸が切れ、彼女は幼子のように泣いた。
「良かったぁ! 本当に良かったよぉ!!」
「え、エレナさん! そんなに泣かないでください!」
「ううう~! ユーティスさんが無事で嬉しいよぉ~~!!」
ユーティスは慌ててポケットからハンカチを取り出し、エレナに渡した。彼女はそれがびしょびしょになるくらい泣いた。涙が滝のように流れ落ちている。
「おい、大丈夫か?」
遠くから走ってきたアストラが、エレナを見るなり、からかうような笑みを浮かべた。
「あーあ! 何だお前! きったねぇ顔だなぁ! 人相変わっちまってるぞ!」
「おやおや。さっきまで頼りになると思っていたのに……困った人ですね」
「ちょっと二人ともっ! 頑張ったのに酷くないっ!?」
目を真っ赤にし、涙と鼻水を拭いてすぐさま抗議すると、ユーティスとアストラはぷっと吹き出して大笑いした。
二人を見ていたら、エレナも怒っているのが馬鹿馬鹿しくなってきて、一緒に笑った。ふざけたやり取りが楽しくて、嬉しくて、どうしようもなく温かだった。




