流れ込む悪意
エレナが森の北側に行くと、ネルバはもう起きて待っていた。草のベッドの上に腰かけ、彼女を見つめている。クラドーと子供たちは、その場に居なかった。どこかに出かけているようだ。
エレナは耳飾りが付いていることを確認し、ネルバに話しかけた。
「おはようございます。ネルバさん」
「ふん。約束通り来たようだな。覚悟は決まっておるのか?」
「はい」
「では上級闇魔法のやり方を教えてやろう」
ネルバは立ち上がり、右の手のひらを上へ向ける。すると光の粒子が空中に集まり、輝く小さな玉が浮かんだ。彼女が恐ろしい形相でそれを見据えると、美しい光の玉が真っ黒に染まっていった。
「このように魔力に意思を込め、その後、呪文を唱えるのだ。自分の心に眠る憎しみや怒り。それを遺憾なく発揮するのだ」
彼女が玉を消失させてから、エレナは教えられた通りに練習をした。
一時間後。
思っているより早く、ネルバと同じ真っ黒な玉が完成した。簡単すぎて、余計にその反動が気がかりである。
何度か成功させたところで、ネルバはエレナに呪文を教えた。
「闇が外に漏れ、周りに被害が及ばんよう、結界を張った。この中に入れ」
地面に円と四角と星を組み合わせた魔法陣が描かれている。練習中にネルバが用意したものだ。
エレナは言われるまま、陣の中心に立った。
「闇に勝たねば、命を落とすぞ。心して唱えよ」
「はい!」
必ずユーティスさんを助けるんだ!!
エレナは集中し、杖を両手できつく握った。杖の上に巨大な光の玉が生まれる。それが完全に色を変えた時、大声で呪文を唱えた。
「悪しき欲望!! !」
黒い玉から闇のエネルギーが放出する。目を開けていられないほどの突風がエレナを襲った。踏ん張る彼女の足元に黒い薔薇が咲き乱れ、棘のついた茎がエレナの足、身体、腕へと巻き付いていく。
「きゃあああああああ!」
エレナの顔が苦痛に歪んだ。棘が食い込み、火傷のような痛みが全身を走る。傷口から闇が体内に流れ込んでくる。
『憎い』
『妬ましい』
『消えろ』
『死ね』
『殺せ』
怨念の声が大音量で頭に響いてくる。エレナは飲み込まれまいと必死に抵抗するが、容赦なく動悸と吐き気が襲ってくる。吹き出る冷や汗。痛みが酷く、意識を保てない。
いけない! 負けちゃ、だめ、だ!
抗うのに悪意は心を食い荒らしていく。
耐えきれなくなった彼女は膝をつき、その場にばたりと倒れてしまったのだった。
──真っ暗な視界にぼんやりと意識の火が灯る。
小鳥のさえずりが聞こえ、草の匂いがする。まぶたに明るい日差しを感じた。
エレナは目を開け、緩やかに上半身を起こした。
「ここは……!」
彼女は鳥肌が立った。
そこにはエレナの生まれ故郷──四年前に滅びたはずの村、【サウロス】が広がっていた。
どうして? 村はもう、失くなったはずなのに。
彼女は立ち上がり、丘の上から辺りの風景を眺めた。豊かな緑の真ん中に、教会と焦げ茶色の屋根が立ち並び、村人たちがそれぞれの仕事に励んでいる。
紛れもなく、懐かしい故郷だった。エレナは胸がじんと温かくなり、その景色をしばし噛み締めていた。
「おーい、エレナ! 何をぼーっと突っ立ってるんだ?」
「え?」
びっくりして後ろを向くと、エレナの父、ニーケがそこに立っていた。
深緑のローブが風にはためいている。短く刈った赤髪と弧を描く太い眉。あごには無精ひげを生やしている。
彼の温和な黒い瞳が、エレナの顔を不思議そうに覗きこんでいた。
「ははは! そんなに驚いて、どうした?」
ニーケは杖を担ぎ、歯を見せて笑っている。
「お父さん!!」
エレナは潤んだ瞳で、父にガシッと抱き付いた。
「おわ! 急にどうしたんだ?」
慌てた声で言いながら、ニーケは照れ臭そうに目尻を下げた。彼はエレナの頭を慈しむように撫でる。
「何か嫌なことでもあったのか? だったら父さんに相談しろよ? 何でも力になってやるぞ! 金以外のことだったらな!」
金以外って。
そういえばお父さん、いつもお金持ってなかったっけ。
思い返せばエレナの家の全財産は、常にしっかり者の母が握っていた。持ったら持った分だけ使ってしまう父は、必要以上にお金を渡されていなかったのである。
エレナは父がちょっと不憫になり、おかしくて笑った。
「大丈夫! 何ともないよ! また会えるなんて思ってなかったから、つい」
そこまで言って、エレナははたと気付く。
待って。お父さんはもう居ないはず。じゃあこの世界は何なの?
夢? それとも幻覚?
自分は先ほど闇魔法の試練に挑んでいたはずだ。棘によって怪我もしていたのだが、その痕跡はない。
一体何が起こっているのか。エレナは自分の置かれている状況が、いまいちよく解らなかった。
そんな時。大きな破裂音がして、村の入り口に火の手が上がった。
「何だ?」
父の視線の先を見ると、煙の上っているところに魔物たちが居た。村を襲いに来たのだ。
「エレナ! 皆に知らせて、ここを離れろ!」
「だめ! 行かないで!」
魔物たちのところへ向かおうとするニーケの左腕を、とっさに掴んだ。彼は振り返りエレナの肩に手を置いた。それから目線を合わせ、強く言い聞かせた。
「大丈夫だ。父さんは死なない。だからお前は他の人たちと逃げろ。必ず追いつく」
皆を助けなければ、という確固たる意志が黒い瞳に宿っている。エレナは父を止められないと直感した。
ニーケは魔物の群れへと走り出す。
「だめだよ! お父さん!」
エレナの心臓が警鐘を鳴らす。追いかけたいのに、足が全く動かない。
そこに体長五十センチほどのコウモリの群れが飛んできて、エレナに襲いかかろうとした。
「危ない!!」
エレナの前に人影が躍り出た。剣が引かれ、切り裂かれた魔物は霧となって消し飛ぶ。
「お母さん!!」
そこには長剣を振り抜く女性──エレナの母、モランが居た。後頭部の高い位置でまとめられた茶髪が、さらりと揺れている。ほどよく筋肉のついたしなやかな身体に、紺のチュニックを纏い、銀の胸当てをしている。エレナによく似た茶色の瞳が、鋭く細められた。
「私はあの人を助けに行く! だからエレナ! 私に構わず行って! 早くっ!!」
モランは言うなりニーケの元へ駆けて行った。
エレナは父と母を見つめ、硬直していた。心臓が嫌な音を立て続ける。逃げ惑う村人たちは、彼女の横を次々にすり抜けていった。
だめだ。二人とも、行っちゃだめなんだ。
村の入口で三十体もの魔物の群れを相手にする両親。
父の魔法と、母の剣の腕はなかなかいい。何より二人の息がぴったりだ。敵が多いにも関わらず、戦況を有利に進められている。
徐々に劣勢になる魔物たち。
エレナは二人がこのまま勝利するのではないかと、淡い期待を抱いた。
だがその矢先。
突然襲ってきた斬撃に、彼らの手が止まった。
悠々と足を進めてきたのは、紫の大剣を持つ、身長二メートルほどの魔物だった。
頭から伸びるねじれた二本の角。山羊の頭蓋骨のような顔に、赤い目をぎらぎら光らせている。裾の裂けた黒いローブを身に付け、首には紫の数珠をぶら下げていた。明らかに他とは違う巨大な邪気を放ちながら、魔物は二人に向き合った。
「虫けら共が。調子に乗りおって」
濁った男の声が響き渡る。二人は果敢に攻撃を仕掛けた。
「儂の力の前に絶望せよ」
両親の一手が届く前に、闇魔法が唱えられた。同時に空から降ってくる数百もの黒い矢。
その全てがニーケとモランに物凄い速さで降り注ぎ、彼らの命をあっさりと奪った。
悲鳴すら上げず崩れ落ちる二人。宙を舞い、エレナの近くに落ちてくるニーケの杖。
一瞬何が起こったのか解らなかった。エレナは頭が真っ白になる。息が吸えず呼吸がままならない。
「やっ…………いやああああああああああああああっ!! !」
金縛りの解けたエレナは、泣き叫び、杖を拾って二人の元へ走り出す。さっきまで生きていたはずの両親は、ぴくりとも動かない。糸の切れた操り人形のように、地面へ転がる二人。それを男は何のためらいもなく踏み潰した。
「あはははははははは! 無様な姿よ! 弱者があがくさまほど、醜いものはないな!」
男は死んだ二人を見下ろし、嘲笑う。心底愉しげに、それでいて憐れむように。
父と母は、自分と村人たちを守るために、命懸けで戦った。
正義と優しさを貫く、真っ直ぐな生きざまだった。
それを、男は馬鹿にし否定した。
「笑わないでっ!! !」
手の甲が白くなるほど拳を握っていた。エレナの中にどす黒い炎が燃え上がる。身体中を流れる血が沸騰しているみたいだった。濡れた瞳を手首で拭い、彼女は目の前の魔物を突き刺す勢いで睨んだ。
四年前のあの日。
たった一度だけ姿を目撃した。
愛する両親の命を奪った挙げ句、その心までも侮辱した男。
忘れたくても一生忘れられない彼の名を、エレナは激しい憎悪をたぎらせ、呼んだ。
「魔王フォボス……!! 私はあなたを絶対に許さない!! !」




