一刻の猶予も
例え全人生をかけなければならない場面であったとしても、おなかの具合は、空気を読まない。
修羅の道をゆく者は皆そうであるが、彼もまた、死ぬことを恐れていない。
今、彼の宿泊する寺は敵に囲まれており、もはや逃げることは叶わない。
信長はどこだ、と怒鳴る声と激しい物音が響いてくる。
ぎゃっ、という、斬り捨てられた者の悲鳴までが聞こえた。
襖を開いて蒼白の顔色をした美少年が暗い部屋の中に進み出る。
森蘭丸。彼もまた、死を恐れてはいない。それでもやはり、この状況に血の気が引く思いだった。
今、この寺を襲撃する敵は、本来味方だった。まさかの裏切りに遭い、勝利の一歩手前で死ぬことになろうとは、彼も蘭丸も、彼らを囲む誰もが想像もしていなかったことだった。
蘭丸が青ざめている理由はしかし、この椿事のためではない。
いかなる修羅場でも動じたことのない彼が、おかしな様子を見せているのが解せないのだ。
彼は、がくがくぶるぶると震えており、白い寝間着の中では内腿をもぞもぞと擦り合わせ、若干前かがみの姿勢である。闇の中で見開いた目は血走っており、唇は土色だ。
「殿」
蘭丸が呼びかけた時、彼はくっと唇をかんだ。
「俺と共に死ぬのであろうな」
はい、無論でございますと答えた。
声はいつもの彼である。なるほど、死ぬことを怖がっていない。
だけど、どういうわけか、寝間着の中で内腿をもぞもぞさせ、前かがみになり、時々「うはっ、おおっ」と言いながら小さく体をよじっては、冷や汗を浮かべているのだった。
彼は既に脇差を抜こうとしているのだが、その寸前にまた苦しむような表情をした。
蘭丸は黙って主君の様子を見守ることにする。
信長はどこだ、討ち取ってくれる、という声が右から左から迫ってくる。
ひゅんひゅんという矢の音まで聞こえてきた。
「……厠へ」
言いかけた彼は、いやいやいやいやと首を振り、また悩むような仕草をした。
そうしている間も脂汗は彼の細面を流れ伝い、顎から膝の上へぽたぽたと落ちる。
ああ――蘭丸は察したのだった。彼と長い年月を共に過ごした蘭丸には分かる。信長は腹が弱かった。また、急性の下痢に襲われているのだろう。今すぐ厠に駆け込みたいのだが、いかんせん、すぐそこまで敵が迫っている。
様々な意味で、一刻の猶予もない状態だ。
「……樋箱 を持て」
ついに彼は言った。
では、と蘭丸が立ち上がりかけた時、いやいやいやいや待てと、彼は引き留めた。
信長臆したか、出て来い、とかなり近いところから声が聞こえてくる。
彼の目は充血のあまり、ほとんど真っ赤だ。
その様は地獄から出て来たような迫力と不気味さがあったが、今彼の頭の中は、天下への執念や、裏切者への憎悪より、耐えがたい便意が占めているのだった。
ああ、出る出る出る今にも出る一刻の猶予もない……。
「殿」
すらっと脇差を抜きながら、蘭丸は静かに言った。
「いっそのこと、今ここで腹をお切りになっては。さすれば体の苦しみからは解放されまする」
青ざめていた彼は一瞬はっとしたが、いやいやいやいやと首を振った。充血した目が険しい光を放ち、あの恐ろしい信長の魂が今こそ燃え上がるようである。
「たわけ」
低いが、聞く者の心を震え上がらせるような声で彼は言った。
「今ここで腹を切った瞬間、体に入った力が全て抜ける。そうであろう」
ええまあ、死ぬのですから力は抜けますね。
蘭丸は静かに答える。
くそったれ――敵の罵声が聞こえる。信長のくそったれ。くそったれええええ。
ばたばた、どかどかという物音は、そこまで近づいている。
ぐびゅっ、びるびるびる――変な音が聞こえてくる。彼の下腹が悲鳴をあげた。
寝間着の肩がぐっとしゃちほこばる。ありったけの気合を、彼は入れたのだった。
「蘭丸、俺は出す」
彼は毅然とした声で言った。は、と、蘭丸は問い返した。
もう猶予はない。俺は出し尽くす。もはや抗うことなどできぬ。どうする手立てもないまま、頑是ない赤子のように俺は出す。出したという事実を置き去りに、俺は冥途にたつ。……ただ。
彼のまなこは金に光るようである。それは般若の顔だった。
「断じてその事実を、知られてはならぬ。わかるな、蘭」
わかりますとも信長様。あなたは天下人となられる方です。その方が、あろうことかうんこ垂れて死ぬなど、あってはならぬこと。この蘭丸、よく理解してございます……。
信長、この臆病者、出て来い。
森蘭丸は微笑んだ。
信長は、うむと頷き、蘭丸ははいと答え立ち上がる。
蘭丸は屏風の奥にあった灯を手に歩み出ると、まるで花でも手向けるように、障子にそっと、火をつけたのだった。
彼岸花が咲き誇るかのように火は燃え移り、飛び移り、見る見るうちに部屋は火の海となり――その火の海の中で、彼はこの世で最後の願望を思う存分満たしたのだった。ぶりゅっ、びるびるびる。
激しい臭気すら炎は燃やし尽くしてくれることだろう。
やがて彼はしゃがみこんでいた場所から立ち上がると、まだ炎に埋められていない場所に座り、おもむろに脇差を抜いたのだった。
「蘭丸、参るぞ」
いつでも、どこでも、おなかは痛くなる。